2007/08/06  

1話 眠らぬ街の叫びから

 新宿歌舞伎町という土地には5000軒もの店舗があり、1日に何十軒もの店が潰れていき、何十軒もが開業しているといわれています。新宿駅の1日の乗降客は350万人。犯罪発生率は他所の40倍で、3人に1人くらいは外国人。毎日おびただしい量の人間のドラマが生成・消滅されています。

 

このような環境に私は育てられ、感性をはぐくまれて来たのです。

 

しだいに無限に多くの音の中から、社会に見捨てられ、社会に踏みにじられた人間の心の叫びを聴き取るようになっていきました。

 

そのように聴き取った、都会の底辺に生きる人たちの声にならない叫びを俳句という十七文字のキャンパスにスケッチするようになっていきました。

 

 

 冬の樹に つかまる蝶の 力かな 

 

 水 食べて 一日 

 

 寒極む 囚われたくて 盗みけり 

 

 時雨れては 泣く児も母も タイことば 

 

 

 これらの絵を描いてから10年も経った今、何も書かれていないキャンパスの白地の部分にあらためて眼を凝らしてみようという気になりました。

 

 そこから浮かび上がって見えてくるものを、これから書き起こしていこうと思います。犯罪都市の人種の生態系、人間の吹きだまりの中で自然発生する社会性、人間の野生的本能、破れた魂のかたち、そんなものがうっすらと見えてきました。

 

治安の悪い地域ほど人々は互いの生命を案じ合いながら暮らしている、そんなものなのです。ドライな現代日本でも、決して消えていないものがあります。しかも都会の隅っこで、活きいきと生き続けているものです。

 

この何ものかを世の中に訴えることが、自分の人生で果たすべきことのように思います。

 

歌舞伎町の台所

 

 今から60年前、戦争に負けてアジアの領土を失った私の祖母たちは朝鮮から本国に引き揚げて来たそうです。「引き揚げ者仲間」というような連帯感をもった人たちがグループをつくり、軍需工場の物品や食料や農産物を売る商売を始めたそうです。ゴザ一枚が一軒のお店で、そういう露店が駅前にいっぱいひしめいていたといいます。これが戦後闇(ヤミ)市と呼ばれるもので、上野アメ横、新宿、新橋、池袋といった今の繁華街のルーツはここにあったのです。

 

私の祖母は、その人たちの中にあって「家がなくて困った人たちのために温かいご飯を売る」商売を始めたといいます。この一つの志は、その後私の両親から私たちの世代まで60年間経った今日までずっと変わることなく受け継がれてきたのです。

 

 夜働く街中の女や男たちが、うちの食堂のお客さんでした。お店の向かいには公園があり、公園や道ばたでは沢山の人たちが寝転んでいました。つまり路上生活を送っていたのです。子どもの頃の私は、おっちゃん達のダンボール集めの仕事についていって遊んでいたものでした。

 

スリリングな探検もたくさんやりました。特殊浴場の紫色のガラスの扉をバンと開けて急いで逃げてきたり、パチンコ屋さんで玉拾いをしたり、板前さんの下宿に忍んで行って寝姿をくすぐったり。

 

もの心ついてから、歌舞伎町の大人達が特別な呼び方で呼ばれ、特別な扱いを受けていることを教えられたのは、皮肉なことに学校やマスコミなどの新宿の外の社会の大人たちによってでした。

 

小学校の教師は言いました。「ルンペンに話しかけたりしては絶対にいけませんよ。彼らは普通の人間ではないのだから」と。

 

カトリック系高校のシスターは言いました。「マザーテレサは偉大です。どんなに汚れた服を着たホームレスでも抱きかかえたのですから」と。

 

そんな侮辱的な言葉を聞くと、私の気持ちはどーんと突き落とされたように感じました。それらの教えに反論するという考えすら思いつかず、はずかしめを受けた悲しみだけが残りました。

 

歌舞伎町が特別な恥ずかしい街であることを教えられたのも、学校の友達や父兄たちによってでした。両親のお店が歌舞伎町にあることを言うと、決まって「お酒を出すところなの?」とか「お父さんはヤクザじゃないの?」などという余計な心配をするのです。そのたびに恥ずかしくて情けない思いをしていました。「カブキチョウ」という地名は人には言ってはいけないものなのだと自分に言い聞かせていったのです。

 

相手が脳裏に抱いた先入観を打ち消す努力には、もう疲れ果てたのです。

 

 歌舞伎町の「家がなくて困った人たち」の困り方は、大したものです。私の両親は、食堂を営みながらお客さんたちの困り事までさばいてきました。

 

 余った惣菜を公園の路上生活者に運んでいったり、病院で門前払いになった路上生活者を病院に連れて行って頼み込んだり。

 

また、街の警察が知っているよりも多くの情報が街の台所には入ってくるのでした。

 

家出少女の家庭にまで出向いていって暴力を振るっていた親に話をつけてきたり、覚せい剤に溺れた生活を長い時間をかけて改めさせたり、これから人を殺しに行こうという人間を踏み止まらせることまでも、どんな手助けでもしていた両親でした。

 

 間違った人間に対しては命をかけて怒り、一歩も譲ることはしませんでした。喧嘩の最終局面では、「悪かった」という言葉を相手が吐くのがたいていでした。

 

 彼らが心を入れ替えた態度にも驚かされたことが少なくありませんでした。

 

 売り物の鉢植えを他の店から失敬して持ってきたり、刑務所から手紙をよこしてきたり、「この店では絶対に食い逃げはやってはいけない」と仲間同士で示し合わせたり、それらが彼らの心尽くしのお礼やお詫びのしるしでもあったのです。

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