2007/08/20  

2話 家族の団欒が欲しい

 

両親が24時間営業の食堂を切り盛りしていて忙しかったので、公園の路上生活者や従業員の板前さんが遊び相手になってくれました。学校に上がってからは、両親と離ればなれになって足の悪い祖母と小さい私たち三姉妹の暮らしがスタートしました。

 

 今回は、私の家庭環境のことをお話します。

 

働く女の系統

 

私の家系のルーツは、九州は熊本県の天草で漁民をしていたといいます。先祖の系統は、漁法を編み出して財をなした人や、皆に食べ物を振舞ったり宗教を信仰して散財した人がいたと伝え聞いています。

 

父方の祖父は郵政の公務員として勤めていた人で、母方の祖父は印鑑の事業を起していた職人肌の人でした。祖父たちは当時不治の病であった結核で早くに亡くなり、祖母たちが女の力で一家の経済を支えるようになったといいます。

 

このころから私の家族は貧乏と戦うようになったのです。

 

生まれてこの方、私の母が主婦をやっている姿をあまり見たことがありません。お客さんたちにママと呼ばれていた母。

 

両親は新宿から離れた池袋にある家に私たちを置いて、歌舞伎町の店の裏の倉庫のような部屋で寝泊りする生活を送りました。子どもが成育するには歌舞伎町ではあまりにも環境が悪すぎるという思いからでした。

 

父母会も、授業参観日も私には縁のない世界のことでした。

 

友だちの家に遊びに行くと、お母さんがいつもいて夕方になるとお父さんが帰ってくるのをほんとうにうらやましく見ていました。私も学校であったことを、たくさん母に話そうと仕事場に電話を何度も何度もかけてしまいました。

 

「何年生になったら帰ってきてくれるの。ねえ、いついつ?」

 

母は、そのたびに「3年生になったらね」「今度は5年生になったら帰ってこれるから」と、だましだましの返答をしていました。しまいに、従業員から「うるさいっ」と言われて電話もあまりできなくなってしまいました。

 

「どうして家族なのに一緒に暮らせないのだろう。家族の意味なんてあるのかな」

 

人一倍寂しがりやの私は、顔を毛布に押し当てながら泣き疲れて寝込んでしまう夜を繰り返したものです。

 

両親は両親で、従業員が突然蒸発したなどのトラブルに見舞われながら平均睡眠時間3〜4時間という修羅場に追い立てられていました。しまいに母は結核にかかってしまい、療養生活を送ることになったのです。療養所を退院した時、私たちに毛糸の手編みのセーターをプレゼントしてくれたのです。病床のベットの上で、母は子供たちのためだけに専念する時間がやっととれたのでした。

 

私の母もまた、親と暮らしたことのない身の上だったのです。

 

私の母は、親戚に預けられながら育ったといいます。預けられた先では女中のようにこき使われていじめを受けながら肩身のせまい思いをずっとしてきたそうです。

 

長靴も傘もないので雨が降ったら裸足で学校に行き、文房具がないので運動会の駆けっこで一等をとって賞品のノートと鉛筆を手に入れていたといいます。

 

貧乏であることの惨めさは、母の人生にもっとも大きな影を落としたのです。それだからこそ、「お金のない苦労だけは子どもにさせたくない」という一心で経済を整えてくれたのです。

 

子どもながらに、貧乏と戦っている母たちを応援しているのだという自覚もありました。母が幼少時代に受けた仕打ちの仇をうちたいという気持ちもありました。

 

両親もまた、家庭の団欒を一緒に過ごせないことにさぞ不憫な思いをしていたことだと思います。離ればなれの生活であるからこそ、互いを慕う気持ちが強くなり、いっそう強い絆で心が結ばれた親子になれたのだと思います。

 

 私の家族は、家庭の団欒の温かさがどんなに得がたいものであるかということを身に沁みて知っています。そうであるからこそ、都会のジャングルで家のない困った人たちに「家庭の温かさ」を売る生業(なりわい)を続けているのだといえます。

 

祖母との暮らし

 

 育ててくれた父方の祖母は、明治生まれでとても律儀な性格でした。足が不自由で満足に歩けないのにもかかわらず、家中の雑巾がけに一日の大半の時間を費やしていました。

 

 小学校の頃は、いつも大きな袋一杯にお使いの買い物をしていたことを憶えています。そして町中のお店屋さんの顔を覚えました。町の奥さんたちに混じって子どもがスーパーに入っていくのは何とも恥ずかしい思いでした。

 

 子どもながらに大きな責任をよく背負っていたものだと思います。しかし何か一大事が起こったときの心細さは常に抱えていました。

 

「もし大地震が起こったらばあちゃんを置いてあんた達だけで逃げなさい」という祖母の言葉は、一番悲しい宣告でした。大地震が起こったら祖母を背負って小さい妹を抱えて、非常階段を降りる訓練を何度も何度も頭の中で繰り返しました。

 

 中学生に上がった頃、祖母の姉である人も一緒に暮すようになりました。この人は九州の貧しい田舎から朝鮮に出稼ぎに行って、終戦後に引き揚げてきた人なのです。自分が犠牲になって働いて働いて本国にいる兄弟たちを養ってきた人なのだと聞きます。

 

 そしてこの人が祖母と戦後の新宿で始めた小さな食堂が60年後の今でも受け継がれているのです。

 

生涯独身で身寄りのない人でしたが、人生の最後になって初めて私たちとともに家庭の団欒というものを味わうことが出来たのだと思います。

 

九州から玄界灘を舟で渡って行ってからの人生の苦労は、私たちには一言も語ることはありませんでしたが、この人の人生の犠牲あっての今の私たちの豊かさがあるのだと思うのです。

 

玄海の波間に浮ぶむかし船 誰もはかれぬ深さの涙

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