2007/09/03  

3話 歓楽街をつくった人たち(1)

 

前回までに私の家族が新宿に流れてきた経緯を書いてきました。では、さまざまな人たちがどのような経緯で流れてきて、この土地が世界有数の歓楽街にまで成長したのでしょうか。新宿は、人が作ってきた街なのです。そうした観点から過去をさかのぼってみましょう。

 

◆江戸時代〜

 

 新宿の街が色街として栄えたルーツをたどろうとしたら、江戸時代にまでさかのぼらなければなりませんでした。新宿の名称は、かつての甲州街道の宿場町・内藤新宿(ないとうしんじゅく)に由来します。「内藤」家の敷地に出来た「新」しい「宿」場という意味なのです。宿場には旅籠(はたご)や茶屋といった宿泊所や休憩所とともに、岡場所(おかばしょ)と呼ばれる遊女屋が集まり、これが今の歓楽街の発祥となるのです。

 

この江戸時代の岡場所は、現在の新宿二丁目の場所に存在していました。明治以降は国家の公認で売春事業を行う「遊郭」となり、戦後は「赤線地帯」として国家黙認の売春区域に定められました。そうしたら今度は非合法の勢力が発生して合法区域の外部に飛び散るという、歴史的必然が生まれたのです。

 

この非合法の勢力が降り立った土地こそが、戦後の歌舞伎町でありました。その後、あらゆる非合法や矛盾を呑み込みながら世界屈指の犯罪都市にまでなっていくのです。アウトローなものを吸引するという本質的な性格は、街が発祥した時にすでに背負った宿命だともいえるのです。

 

◆関東大震災(1923年(大正12年))

 

関東大震災で当時東京の一大歓楽街であった浅草付近の吉原や洲崎等の遊郭はほとんど焼けてしまい、被害をあまり受けなかった新宿遊郭はますます盛況になったといいます。

 

◆戦災復興期(1945年〜)

 

焼け野原になった東京で復興の先陣をきったのは、闇市(やみいち)でした。「光は新宿から」というスローガンのもと、テキ屋達が新宿駅前でマーケットと呼ばれていた闇市をリードしていたのです。市場を担ったのは満州や朝鮮や台湾から渡ってきた外国人、引揚者、罹災者、テキ屋、博徒、愚連隊といった人たちだといいます。実にこの面々が今の盛り場歌舞伎町の下地を作った人たちなのです。

 

今でも当時の闇市の面影を残す一帯が存在しています。新宿駅西口の「思い出横丁」がそれです。ここは「赤ちょうちん」と呼ばれる小規模な居酒屋や飲食店が密集していて、薄れ行く昭和の残り火を保ち続けているエリアなのです。

 

上野アメ横や新橋、池袋などにも闇市の臭いを残している路地がありますね。

 

 さて歌舞伎町という町名には伝統芸能の歌舞伎の文字が入っていますが、これには面白いいきさつがあるのです。当時、区の戦災復興都市計画の目玉として都が音頭をとり、新宿区への歌舞伎座の誘致が計画されました。そして、土地の名称まで「歌舞伎町」と命名したのです。確かにその後の新宿は映画・講談・落語・演劇・ジャズ喫茶といった大衆文化を育む一大拠点へと成長したのですが、歌舞伎座の誘致そのものは失敗に終わり、歌舞伎町という名称だけが残ったといういきさつなのです。

 

ところで、今の歌舞伎町で上位を占める資産家はどんな人だと思いますか。

 

現在、遊技場などの大きな物件をほとんど握っているのは、実は華僑などの外国人なのです。在日朝鮮人や台湾を中心とする在日華僑たちが、歌舞伎町の空き地にいち早く目をつけて資金を出し合って土地を買い取ったのです。

 

◆赤線・青線(1945年〜)

 

新宿遊郭は、1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失してしまいました。そして1946年(昭和21年)のGHQによる公娼廃止指令によって事実上遊郭の歴史は幕を閉じることになります。国家の政策で行われていた売春事業を、外国の指導ではじめて止めることができた日本なのです。

 

ところが所轄の警察署では特殊飲食店(カフェー)として売春行為を黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街を赤線(あかせん)地帯と呼んだのです。新宿遊郭があった新宿二丁目一帯がそれでした。

 

これに対して、特殊飲食店の営業許可なしに一般の飲食店の形態で非合法に売春行為を行う区域が発生し、青線地帯と呼ばれました。これを担っていたのは新宿駅前の区画整理で土地を追われた闇市の人たちでした。この人たちが歌舞伎町に流れてきて、木造バラックの飲食店街を形成したのです。

 

合法 ―「赤線」― 新宿二丁目

非合法 ―「青線」― 歌舞伎町

という関係ですね。

 

歌舞伎町が危険な街として知られる元凶である、悪名高い「ぼったくり」や「キャッチバー」の手口が発祥したのも青線地帯のことだったのです。

 

◆朝鮮戦争(1950年代)

 

朝鮮戦争の影響で朝鮮半島から逃れてきた人が流入してきました。在日韓国人が創業した「お口の恋人」ロッテが大久保の土地に工場を建てたことにより、ますます多くの韓国・朝鮮人が集まってきて住みつくようになりました。こうして今の大久保コリア・タウンの下地ができあがったのです。

 

また、大久保の地には戦前から国際学友会日本語学校があり、もともと東南アジアの人たちが集まってくる下地も早くからあったのだということです。

 

◆売春防止法(1958年(昭和33年))

 

この年になって本格的に売春防止法が施行されることになります。

 

新宿二丁目の赤線地帯では、営業停止となった店などを利用してゲイバーが営業を始めました。同性愛者向けのバーやクラブが集中する世界最大級のゲイ・タウンの発祥となります。今では「二丁目」といえば「ゲイの街」として多くの人に知られていますね。

 

青線地帯のほうは、売春防止法施行の後に街の名称を変えました。とくにそのうちの一つ「ゴールデン街」には、劇団関係者、作家、そして学生運動家といった文化人達が客として集うようになり、一晩中イデオロギーをぶつけ合うメッカとなっていきます。今は著名な文化人達も、この街から大勢輩出されているのです。

 

文化人たらんとする人間にとってゴールデン街に馴染みの店を持つことは必須とみなされるという、独特の「ゴールデン街」文化が生まれ、今でもこの一帯は知る人ぞ知る文化人たちのたまり場なのです。

 

◆   若者文化(1960年代)

 

1960〜1970年代は、新宿が「若者文化の発信地」と呼ばれていた時代です。

 

反戦フォークゲリラ、アンダー・グラウンド(アングラ)、小劇場、歌声喫茶、ジャズ喫茶、ヒッピー、フーテン族、サイケデリック。多くのカウンターカルチャー(対抗文化)が新宿から発祥した時期でした。

 

そうしてヒロポンなどの麻薬に溺れた残党が、新宿繁華街の浮浪者層の中核を形成していくのです。フーテンとは、もともとヒッピーの格好をして新宿駅前でぶらぶらしている若者をさす言葉だったのですが、新宿の住人が浮浪者を指してフーテンと呼んでいるのは、この頃の名残でもあるのです。

 

その後、新宿は「若者の街」とは言われなくなり、渋谷・原宿や六本木などへその地位を譲ることになったのです。

 

◆超高層ビル群(1970年代)

 

西新宿にあった淀橋浄水場の広大な土地が埋め立てられ、1971年に京王プラザホテルが建設されたのを皮切りに、日本の財閥などの大資本はシンボルとなる高層ビルをこぞって建設しました。西新宿一帯が超高層ビル群となっていくのです。

 

1991年に東京都庁舎が新宿高層ビル群の一角に移転し、西新宿が日本最大のオフィス街となったのです。新宿新都心時代の幕開けです。

 

摩天楼の高さは、あたかも新宿の欲望の高さを象徴しているかのようにも思えるのです。

 

 

新宿の高層ほどの野心かな

 

 

歓楽街をつくった人たち(2)につづく

 

 

志あるリー ダーのための「寺子屋」塾トップページへ