2013.01.28 

第2話 教師を志すに至った理由

 幼少期は、どちらかと言うと明るく活発な性格で、人懐こく、自分が日々体験するさまざまな出来事について、周囲の大人に聴いてもらうことが楽しく、よくおしゃべりしていました。

また、人の気持ちに敏感なところがあり、人の行動や言葉の中に何か気になることがあると、そのことが心に引っかかり、夜なかなか眠れないということもありました。

好奇心が旺盛で、興味があることに挑戦することが楽しく、やる気が出ました。特にピアノを弾くことと歌うことが3度の食事よりも好きで、ピアノの先生が主催する合唱団に所属して、休日は季節のイベント会場や結婚式場でピアノを弾いたり歌ったりしていました。

また小学4年生の夏休みからは毎年、所属していた国際交流機関主催のサマーキャンプや交流会などに参加し始めるなど、知り合う人の輪が大きくなり自分の世界が広がることも楽しむようになりました。

そのような生活の中で、私には、突然スイッチが入ったかのように強い気持ちが湧き出る時がありました。それはいつも決まって、困っている人やつらい思いをしている人がいる時でした。老若男女関係なく、困っている人を見たら放っておくことができず、逆に理不尽なことをする人に対しては黙っていられず立ち向かっていくという傾向がありました。

小学5年生のある日、おとなしくて相手に何を言われても言い返すことをしない男の子が、からかわれてランドセルを体に投げつけられるのを目にしました。私は思わずその場で相手に反撃しました。自分にとっては当然のことと思っていました。

大人になってからの同窓会で、目撃していた人が思っていたより多くいたことを知りました。更に同級生から「あれは迫力あったね」などと言われた時に、ふと、同じ場にいてもみんなが同じ行動をとるわけではないのだということを実感しました。

私が教師を志すきっかけになったのは、中学校と高校で出会った全く性格の違う2人の担任の先生方との出会いにありました。

中学校の時は担任の先生の気持ちが理解できずに悩み、高校の時は担任の先生が共に歩み励ましてくれていると実感し、自分の中に全く正反対の気持ちが芽生えた6年間でした。

中学校の担任の先生は男性で、厳格でゆるぎない価値観をもっている先生でした。常に毅然とした態度と表情でいて、同僚や生徒と談笑するような姿を目にすることはありませんでした。

朝の会と帰りの会に、生徒に専用のノートを開かせ、先生が自分のノートに綴った教えを読み上げ、書きとらせます。「3つ申し上げます。1、先人の教えに学びなさい。思いつきで行動するような愚か者になってはいけない。2、考えることを疎かにしてはいけない…」というように、先生が大事だと考えていることを生徒に書きとらせていました。

大人になって聞けば「なるほど」と思うすばらしい教えがたくさんあったのだと思いますが、当時の私にはそれらを深く理解する能力も生活経験も乏しく、先生が伝えたい本当のところをきちんとキャッチできずにいました。

授業では、できない問題があると「バカ者」という言葉で評価されました。先生は、生徒の学力を高めることを重視していたので、生徒を鼓舞する言葉として使っていたのだと思います。自分を客観的に見てみれば、確かに「バカ者」に匹敵する要素はいろいろあるわけですが、当時は、先生から言われる言葉に自分自身を否定されているような感覚をもち、つらい気持ちになっていました。

給食の時間は、他のクラスとは違って席は授業の時と同じ列のまま前を向いて話をせずに静かに食べます。

私にとって忘れられないできごとは、ある日の給食の時間に起こりました。隣の席の男子が鼻血を出したのです。本人がもっていたティッシュだけでは足りなかったので、私はすかさず自分のティッシュを差し出しました。その瞬間に先生の大きな声が聞えました。私の名前を呼んでいました。そして先生は「お前の家では横をむいて食べるのか!親が知れるな」と言いました。それを聞いた時、心の中に「困っている友達を手伝おうとすることがそんなにいけないことなのだろうか。そうだとしても、このことになぜ親が関係あるのだろう」という思いが湧いてきて悔しくなりました。そして「○○君を保健室につれていきます!」と言い、その男子の手を引いて教室を出ました。

先生から見ると、反旗を翻したバカ者に写っただろうと思いました。それからはなお、先生と良好な関係になれないことを感じながら時が過ぎました。

クラス替えもありましたが、3年間同じ先生でした。中学校生活の3年間、自分は担任に認められていないと感じ、存在そのものを否定されているという感覚をもったまますごしました。

大人になって冷静に考えると、その先生は、より良い生き方を探求し、美徳を重んじ、自分が大事だと考えていることを伝え、生徒に人としての在り方を身に着けさせようと懸命だったのだと理解できます。しかし、中学生だった当時の自分には理解できなかったのです。
 
 夜になると、仕事から帰った母に毎日のようにそのやりきれない思いをぶつけていました。

母はいつも決まって「あなたがつらい気持ちはよくわかった。本当の自分をわかってもらえないのはつらいものよね。あなたが本当は純粋で優しくて正義感が強い人だとお母さんはわかっているよ。でもね、もしかしたら、先生が誤解するような行動をとっているように見えることがあるのかもしれないね。先生が誤解するような行動をとらないように気をつけながら頑張ってみようか。いつかきっとわかってくれる日が来ると思うよ」という内容のことをくり返し言っては私を励まし続けました。3年間、1度も担任を批判することはありませんでした。

当時の私は、いっそのことふてくされて先生への当てつけに、やりたい放題やろうかなどと思ったこともありました。やりたい放題と言っても、別に本当にやりたいのではありません。自分を認めず否定ばかりする先生に対して、「自分にも意思はあるんですよ」と表現をするためにだけ、何かをやってしまいたかったのです。それは、本当にやってできないことではなく、実行寸前だったのでした。

しかし、その思いが浮かぶ度に、一瞬にして思いとどまらせるブレーキがありました。それはただ1つ、母をこれ以上悲しませたくないという思いでした。

大人になってその頃のことをやっと話せるようになった時、母は「あの時は、先生のやり方にどんなに不満をもっていたとしても、そこで先生を悪く言ったら、あなたは糸の切れた凧になって、先生に対して不満を態度に表すようになるかもしれないと思ったの。それはあなたのためにならないと思ったから、あなたの成長を願いながら涙を呑んであんなふうに言ったのよ」と言っていました。

級友と母の存在に支えられて過ごした3年間を終了し高校に入学すると、中学校とは全く別の世界が待っていました。

そこでは、担任の先生の心が生徒と共にあると感じました。生徒の存在を認め、励まし、共に前に進もうとしてくれるのです。また、努力すればそれも認め評価してくれました。「認められることはやる気につながる」ということを実感すると同時に、そのような世界があったことに何とも言えない新鮮な驚きを感じました。

高校3年になって初めて「中学生の時がつらかった」と、先生に言葉に出して話すことができるようになりました。そう打ち明けても、自分自身の心が崩れそうにならなくなっていました。それと同時に、ある思いが湧いてきました。

「教室の片隅で肩を落として握りこぶしを震わせている人、本当の自分を出せずに顔で笑って心で泣いている人、勇気を出したいのにためらっている人、自分を認めることができず自分はダメな人間だと思っている人、いろいろな人がいる。人はうまくいかないと感じているひとつのことで、他の全てをもあきらめてしまうことすらある。しかし、その人たちの中にある本当のすばらしさを引き出すきっかけを作るのは“人”だ。その“人”になりたい。10人いれば10人違う。その違いに対応できる教師になりたい」
 
 次回は教職に就いていた20年間を振り返ります。

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