2013.05.20 

第3話 教職に就いていた20年間
― 初めての試練 ―

高校を卒業する時に、生徒一人ひとりを大事にする教師になると密かに心に決め、1浪して教員養成を専門としていた文教大学に入りました。入学後は1年時から教員採用試験に向けて準備を始めました。大学では学部を超えて生涯の友に出会うこともでき充実した生活を送る一方で、遊んでいる時もアルバイトをしている時も、いつも心の中で理想の教師像を思い描いていました。そして教員採用試験に1回で合格することを目標にしました。

合格通知が届いた時、うれしいという気持ちよりも「スタートラインに立った。やるしかない」という何とも言えないずっしりとした思いと、「自分にできるだろうか」という不安の、両方が心を占めていました。

教職に就いたのは、ちょうど初任者研修制度が導入された翌年でした。はじめの1年間は、研修に通いながら学校現場での仕事に夢中で取り組みました。早く一人前の教師になりたくて、次々と目の前に現れる初めての仕事に緊張しながら、必死でした。多くの先輩の先生方の叱咤激励を受けながら過ごした1年間でした。

初任当時、理想の教師像を求めて模索し、やる気だけはありました。しかし、実際に多くの生徒を前にして、それを具体的にあらわす人間性と技が圧倒的に足りていないことを痛感しました。

努力している人が結果を出せるよう手伝いたい、やる気をなくしている人を元気づけたい、苦手だと思っている人でも楽しいと思える授業を展開したい、一人ひとりの自己肯定感を高めたい…、日々願うことは泉のように湧いてきました。しかしそれらを現実のものにすることはなかなか難しく、理想にほど遠いところにいる、できていない自分に、焦りや落胆、嘆きが次々と湧いてきて、時間の経過と共に疲弊していきました。

やり残した仕事をもち、帰りの電車に乗り、ドアが閉まった途端に張り詰めていた気持ちが緩み、涙が溢れてくるということが何度もありました。混み合うラッシュの電車の中で、溢れる涙を止めることができないでいるうちに、周りにいた男の人達が、まるで「泣かせているのは自分ではない」と訴えるかのように離れていき、自分の周りだけが空いたこともありました。今でこそ笑い話ですが、当時はそういう自分の弱さが情けなくて、更に落ち込みました。

初任者研修で知り合った仲間達と仕事の悩みを打ち明け合うこともありましたが、そこでは、いつも不思議に感じることがありました。仕事で大失敗をしたとか、先輩にすごく叱られたとか、いろいろな話が飛び交うのですが、自分だったらとても落ち込んで立ち直れないのではないかという程のことを、まるで笑い話のようにあっさりと話し、ケロッとしている人がいるわけです。それも、無理をして元気にふるまっているようでもないのです。

そういう仲間を見る度に、「なんて強いんだろう」と感心し、自分の心の弱さを再認識して、ますます自己嫌悪に陥っていきました。当時の私は、先輩の一言や生徒の反応の中に気になることがあると、何か自分の態度にまずいことがあったのではないかと振り返ってよく落ち込みました。大失敗からすぐに立ち直って笑い話にすることなど、とてもできなかったのです。「自分はなんて傷つきやすくて臆病で小心者なのだろう、これで生徒を守り導くことなど、とてもできない」と、顔に出さずとも、心の中ではますます落ち込んでいきました。

悶々と悩む日が続き、八方ふさがりの状態にあるように感じました。ネガティブな思いが次々と湧いてきて、早くも1年目から「自分にはこの仕事は向いていない。辞めたい」と、ことあるごとに考えるようになっていました。

転機となる出来事は、2年目に起こりました。

悩み、嘆きながら過ごした1年目が終了すると同時に、結婚しました。そして2年目は、仕事では初めて担任をもち、そこに私生活での家事との両立という新たな課題も加わりました。

1年目にも増して必死に取り組みましたが、最も大事だと思っている生徒達との関係は、なかなか理想のようにはいきませんでした。元気でやんちゃな生徒達を聴く姿勢に導くことができなかったり、予定通りに授業を進めることができなかったり、コミュニケーションがうまくとれなかったりと、うまくいっていないことだらけに思えました。

その2年目の半年が過ぎたある日の夜、帰宅して夕食の準備をしていた私は、突然腹痛を覚えました。痛みはどんどん増して、身体を伸ばすことも起き上がることもできない激痛になりました。救急車を呼ぼうにも、電話を取りに進むことができず、数時間そのままうずくまっていました。数時間後、痛みが少し薄れたのでその夜はそのまま様子をみました。翌朝になると、痛みはあっても少し動けるようになったので出勤しました。すると、朝の打ち合わせの時にまた激痛になりました。不本意ながら休暇をもらってタクシーで病院に行きました。診断結果は、重症の子宮内膜症で、卵巣も腫れていてそのための痛みとの診断でした。そして、そのまま入院となりました。

しばらくは茫然自失の状態で、病室の天井をただボーっと眺めて時が過ぎました。痛み止めが効いてきて我に返ると、今度は仕事のことばかりが気になって、検査や治療どころの気分ではありませんでした。自分のクラスや教科で担当している生徒、同僚の先輩たちにどれだけ迷惑と負担をかけているかを考えるととても申し訳なく、焦燥感に駆られ、眠れぬ夜を幾晩も過ごしました。しかし、結果として、仕事に戻れる状態ではないことが判明し、半年間休職することになりました。

もう1つ、自分にとって予想していなかったことがありました。休職中、合わせて3人の産婦人科医の診断を受けたのですが、3人からそれぞれに、子どもは授からない可能性が高いということを告げられました。

仕事もプライベートも、暗礁に乗り上げたように感じました。

何となく、仕事と体に起きたことは切り離しては考えられないような気もしました。どちらのことも、うまくいかない原因が何で、どうすればこの難題を解決することができるのか、半年間、手当たりしだいに模索しました。
 
 治療の方は、医師や周囲の人々から勧められたことを片っ端から試しました。仕事については、まずは自分自身のあり方を見つめ直すべく、こちらも手当たり次第にいろいろな学びのチャンスを模索しました。

そのうち、ある考えが浮かんできました。「私は今、精神的にも肉体的にもこれまで体験したことのない暗いトンネルの中にいる。就職してからの1年半、心のどこかでこのつらさから逃げ出したいと思っていた。しかし、現状から目をそらし、逃げ出すことを考えていても状況は変えられなかった。今の私は、このつらさをとことん味わうことなしに這い上がることはできないのかもしれない。現実を直視して、どんなに落ち込んでもいいから、自分の至らなさ、弱さ、ネガティブな感情などをまずは洗い出そう。とことん受け止めて、そこからスタートしよう。そして理想とするあり方を見つけていこう。自分に正直に」

この時に、自分の中に「覚悟」が芽生え始めたように思います。

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