2006/09/26

第1話 自己を肯定するということ

子どもたち(若者)に問う ―君は自分が好きか?― 

 

 あなたは自分が好きですか―?

 こんな質問をされたら、子どもだけではなく、大人も一瞬、戸惑ってしまうのではないだろうか。また、今まで生きてきた中で、自分が自分を好きかなどと自身に問いかけた経験を持つ人はそう多くはないだろう。

 私が教育という仕事に携わり、責任ある地位についてから早二十年が過ぎ去ろうとしている。教育と一言に言っても、その時代背景にあった「学び」が学ぶ側にあるように、教える側も変化していかなくてはならない。言い方を変えれば教育にもトレンド(動向)があるということだ。今までの教育の多くは「教えを受ける」ことが基本であったが、これをトレンドという言葉で表現するならば、残念ながら時代を逆行していると言わざるを得ない。しかし「教えを受ける教育」が悪いのかと言えばそうではない。

 問題は方針ではなく、教育を受ける子どもたち自身の心の中にあるからだ。

 その最たるものが、日本の子どもたちの自己肯定感の低さである。

 自分を肯定できない子どもに「学びたい」という気持ちは沸いて来ない。「どうせ何をやってもダメ」という否定的な感情しか起こらない。そんな子どもたちに頭ごなしに「勉強しなさい」と言ったところで暖簾に腕押し、糠に釘である。

 では、子どもたちにやる気を起こさせるにはどうしたらいいのか。

 今、教育者として私が最も必要だと考えているのが、子どもたちの自己肯定感の向上である。肯定といっても、自分自身の好きなところを見つけ出すだけが肯定ではない。ありのままの自分を受け入れ、認めることも肯定に繋がる。学校で問題だと言われている子ども、そして、一見いい子に見える子どもや普通の若者にも大きく欠落しているのがこの部分なのである。

  現在、日本にはニートと言われる若者が実に68万人もいる。(厚生労働省のデータ参照)学ぶ意識の低下は働く意欲の低下にも繋がる。その原因を紐解いていくと「自分は何をやってもだめ」という自己否定にたどり着く。自己を肯定する、自分自身を受け入れるキャパシティーが全くない。まず子どもたちのこの部分を取り除くことこそが、今、最も教育者として求められていることではないかと思うのである。

 文部科学省が掲げているスローガン「生きる力の育成」は、若者たちが、自己を肯定することから始まるのである。

 

沖縄のニート自立支援塾 

 

 現在、私は日本青少年育成協会の会長を務め、常に青少年の視線で物事を考え、様々な活動を若者と共に行なっている。

  協会は健全な青少年の育成を目的として設立された組織であり、平成六年春、内閣総理大臣により許可を受けた社団法人である。

会員は学識経験者、青少年団体、私立学校、PTA、学習塾、フリースクール、スポーツ教室、教材会社から会社員、主婦など多くの立場の方々で構成されている。

この協会は全国に支部があり、昨年度からは沖縄でニートの若者自立支援塾がスタートする運びとなった。

この自立支援塾は、3カ月間の合宿で生活訓練や職業観の育成、学習する習慣を身につけることを主とした啓蒙活動塾で、合宿終了後には参加者の70%以上が就学や資格の取得、就業を目標としている塾である。

さて、その自立支援塾に、今年2月、三期生となる20歳から35歳までの13人の男女が地元である沖縄ほか全国各地から集まった。大学を卒業している若者も六人いた。さらにそのうちの4人は過去にリストカットの自傷行為をしている若者たちだった。参加者のうち約三分の一が自傷行為の体験を持つことは通常なら驚くべき事実である。しかし、ニートたちの間ではさほど特別なことではない。リストカットなどの自傷行為は自己嫌悪、自己否定の顕著たる現れである。つまり、ニートから抜け出すには、自己嫌悪、自己否定の気持ちを彼らから取り除くことが大前提だということがわかる。彼らの中に自己を認め、受け入れる気持ちが出てくれば、前を見て一歩を歩み出す勇気が沸いて来る。最初の重い一歩が踏み出せれば、次の一歩はもっと軽くなる。そしてまた次の一歩はさらに軽くなり次々と前に進むことができるはずだ。自己否定をしていては最初の一歩は踏み出せないというわけである。

 

23歳のニート、カイト君

 

ニート自立支援塾に、ひとりの青年が参加していた。年齢は23歳で大卒。見た目はさわやかで誠実、小奇麗でどこから見てもニートには見えない彼は、大学卒業後は就職もせず自宅でぶらぶらして過ごしているという。

 身長は170センチほど。私はその青年に「カイト君」というニックネームをつけた。

「あなたがこの合宿の3ヶ月間で、得たい成果とは何ですか?」

 私の質問に彼は間髪入れずに答えた。

「自分を好きになりたいのです。自分自身を信頼できるようになりたいのです」

「自分自身の肯定感を最大10だとすると、10のうち今のあなたが自分を肯定できる割合はどれくらいですか?」

「・・・1です」

 迷うことない彼の言葉に私は驚いた。

 多くの若者は「自分で自分が嫌い」だという。それは一体いつから起こるのか、また原因は何なのか。

 過去にさかのぼれば、その理由が判明するはずだ。

 最も初期―。そう、赤ん坊として生まれた時、その赤ちゃんは、自分のことが嫌いだろうか。自己を否定して生まれるのだろうか。

 そんなことは絶対にあり得ない。自分を肯定しているからこの世に生まれて来るのだ。

 命とはもともとそんなに柔なものではない。生きたい、生まれたい、という強い欲求があるからこそ生命を受けこの世に出てくるのである。

 私は少し冗談っぽくカイト君に問いかけてみた。

「生まれた時から自分のことが嫌いだったの?」

「そんな・・・。そんなことはありません」

 それはそうだろう。私は大きくうなずきながら話を続けた。

「じゃあ、いつ頃から自分を否定するようになったのか、過去を振り返ってみよう」

 過去を振り返るという行為は、思うほど簡単なことではない。カイト君のように自己否定が激しい人間ならなおさらである。なぜなら嫌いな自分を創った過去には嫌な思い出が多く存在しているはずだ。どちらかと言えば振り返りたくない、記憶から抹消したいと考えるのが普通だろう。

 しかし、その部分を打開して自分自身と向き合わなければ、カイト君が言う「好きな自分」には永遠になれない。

 この塾では指導者が、真正面から若者に向き合い、彼らが「前に進みたい」という気持ちを「コントロール」という強制的な形ではなく、本人の中にある「否の部分(邪魔をする何か)」を取り除くことで、改善へ導こうと考えているのだ。

 果たしてカイト君の「自己否定」はいつ頃から芽生えたのか。これに本人が向き合わない限りニート脱出はなかった。

「いつ頃からなんだろうね。過去にさかのぼってみよう。いいですか?」

「はい、いいです・・・」

 カイト君は少し緊張した様子だったが、素直に私の意見に従った。

 よほどの決心で、合宿に参加したのだろう。自分を好きになりたい―。前に進みたい―。その思いがカイト君の全身から伝わってきた。

「幼稚園の頃、思い出して見てください。幼稚園の頃、どんな子どもでしたか?お母さんやお父さんとはどんなところへ行きましたか?どんなことを話しましたか?」

「・・・」

「では、小学校の頃は・・・?」

「・・・」

 その都度、私はカイト君の顔の動きをひとつひとつ注意深く観察し続けた。

 わずかな瞼の動き、眉をひそめた時にできる眉間の小さな皺、そして、ときどきぴくぴくと動くこめかみや、誠実そうな唇―。

 時折大きく表情が変わる瞬間を狙って、私は次々と彼の過去にアクセスしていった。

 カイト君の中には、その時々の映像や音、そしてそれらが交じり合った出来事がひとつのストーリーとなって見えてきているはずだった。

「ここは、あなたにとってとても居心地のいい、安全な場所です。もしよければ、何があったのかここで話してみませんか?」

「・・・母親が、恐ろしい顔をして僕を怒っています・・・。『お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさい』って・・・そう言っています」

「その時、あなたはどんな気持ちでしたか?」

「悲しくて・・・悔しくて・・・やり場のない、そんな気持ちでした」

「その悲しさや悔しさと同じような気持ちになったことは、その後もありましたか?」

「はい・・・」

「それはいつ?」

「二十歳の時・・・」

「何かあったのですね」

「はい。父に今の母は本当の母親ではない、本当の母親は僕が二歳の時に出て行ったと聞かされました」

「それを聞いてあなたはどんな気持ちでしたか?」

「弟には優しいのに僕には厳しい。本当の子どもじゃなかったから・・・。やっぱりな・・・。といった気持ちでした」 

 過去の辛い体験が、長い年月の中で、「点」から「染み」となりやがて無限に広がって、本人の心に暗く太い根を張ってしまう。

 カイト君は「お母さんが怒る」=「お母さんは自分が嫌い」=「本当の子どもではない」と子ども時代に記憶の中で結びつけ、「本当の子どもではない」=「自分の存在価値が見出せない」=「自分が嫌い」となってしまったのだろう。

 これはカイト君に限らず、多くの人が思い当たることではないだろうか。

 誰かから必要とされる、誰かから認められることは、自己を肯定できる最も大きなモチベーションとなる。だからこそ、人は、社会の役に立ちたい、誰かから必要とされたいと自然に思うのである。

 カイト君は残念なことに、子どもの頃お母さんからひどく怒られることで、「自分は愛されていない」=「自分は母親から“必要”とされていない」と心にインプットしてしまった。しかし、どこかで自分を認めたい気持ちが彼の中で葛藤し続けていたはずだ。だからこそ、彼は塾へやってきた。

 社会の役に立つ自分になるため、誰かから必要とされる人間になるためには、当然ニートなどではいられない。今の時代、そんなジレンマが多くのカイト君を作り出している。

「自分を好きになるためにこの塾へ来た」そう言ったカイト君のことを私はことあるごとに思い出す。なぜなら、私が今、子どもたちに伝えたい多くがカイト君との出会いにあったからである。

 

※第2話は、カイト君の塾でのその後と自身の生い立ちについて触れてみたいと思います。 

 

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