2012.11.12  

   第69話:絆 ー従業員研修旅行・被災地へーその6

 従業員研修旅行三日目の朝、ホテル観洋で「鎮魂の儀」を終えた私たちは、バスで被災地、南三陸町を視察訪問した。

 訪問先の多くはガレキと建物の鉄骨以外何もなかった。

 すでに震災から一年以上が経っているというのに、あの日のまま時が止まっているようだ。社員たちはその様子をバスの窓からただ黙ってじっと見入っていた。

 私たちが降り立った戸倉小学校は、校舎及び体育館が全壊。

 たまたま、地震前日の3月10日に学校で避難訓練がされていたため、訓練通りの指示、避難によって全員が無事高台に移動し、壊滅的被害を受けたのにも関わらず、ひとりの犠牲者を出すこともなかった。

 しかし、高台にあり被害がほとんどなかった中学校では津波が一旦引いた際に下に降りて行った10名が犠牲となってしまった。

 この事実は日頃の防災知識と訓練がいかに大切であるか、いかに明暗を分ける結果になってしまうのかを私たちに物語っていた。

 その後、私たちが献花をした南三陸町防災対策庁舎では、すでに多くの花が人々の手によって添えられていた。避難をその瞬間まで呼びかけていた職員がいたこの庁舎を38メートルの津波が襲ったのだ。あの日以来、この場所は、絶えることなく訪れた人々の手によって献花されているのだろう。職員たちの命がけの職務遂行と呼びかけで多くの町民が救われたのである。

 どうか、どうか安らかにお眠りください・・・

 合掌し、誰もが強くそう祈らずにはいられない場所であった。

 こうして、二時間の視察を終えた私たちは、松島大観荘で昼食を取った後、同ホテルで仙台進学プラザの阿部孝治社長の講演を聞き、この度の研修旅行を締めくくることになった。

 仙台進学プラザは宮城、福島、青森、山形を中心に139教室、15000名(グループ合計)の生徒を抱える大手学習塾で、東日本大震災の影響を大きく受けた企業のひとつである。

 この東日本大震災でも被災体験をいち早くまとめ「東日本大震災への対応の記録」として、昨年7月には全国の塾に送付。そこには塾生と従業者の安否確認、業務をどう継続したか等、再開までの道のりが詳しく記されていた。

 今回は弊社と同じ学習塾として、震災時の状況や塾としての対応の仕方、また震災を通して学んだことを弊社社員たちに同業者の立場から、是非お話しいただきたいと思っていた。

 阿部社長のお話の中で最も興味深かったのは、「社会に於ける塾の存在意義の大きさ」だ。

 阿部社長は震災の経験を通して「大震災が起きても塾は強い」ということを改めて学んだという。

 震災直後、仙台進学プラザが最初に行ったのは塾生の安否だった。

 地震発生当時は多くの児童、生徒が学校にいた。学校はそれ自体が避難所の役目を果たす目的として作られていたため、塾生はみな無事だった。

 ところが各教室はというと、仙台進学プラザの石巻教室は半壊で後には廃校にせざるを得ない状況だったし、社員たちは命からがら自転車で避難というあり様だった。他の教室も多かれ少なかれ被害を受けていたので、地震発生当時が塾の営業時間でなかったことは不幸中の幸いであったと言う。

 その震災直後は、生徒の数が半数にまで激減。

 今は塾どころの騒ぎではないだろうと言うのが、阿部社長の率直な思いだった。

 ところがそんな中「塾の再開はいつなのか」という生徒や保護者の声がちらほら寄せられるようになった。

 「学校は避難所となり、いつ授業が再開されるかわからない・・・早く塾を再開してください」

 阿部社長にとって、その保護者の声は意外なものだった。

 家が流され、住むところを失い、車も失い、すべてを失い、食べるものにさえも不自由な中、塾の必要性などプライオリティから言えば一番後ろになるのではないか、そう思っていたからだ。

 「塾を再開してほしい」と懇願する母親が阿部社長に言った。

 「私たちは家を失い、すべてを失いました。残っている希望は子どもだけです。子どもの未来だけなんです。子どもの将来に光を灯すためには教育が必要です。塾をすぐに再開させてください」

 世間が思っている以上に、親の子どもの未来に対する想いは切実なものだった。

 東北が被災して勉強できる状態ではなくても大学受験は全国を相手に戦わなければならない。被災して勉強できないから試験に落ちた、は通用しないのだ。

 熱心なのは親だけではなかった。

 子どもたち自身も勉強したいと自らが教室に訪れ、訴えていたのだ。

 不思議なもので「勉強しなさい」と言われ、勉強を始めるとなかなか進まないのに、いざ勉強ができなくなると子どもたちは「塾いつから?勉強したいんです」と聞いてくる。

 失って初めて事の大切さにやっと気付くのである。

 阿部社長は、その思いを一身に受け、塾を早急に再開させることにした。

 「やっています!うちは、やっていますよ。来てください」

 勉強したいと願う子どもたち、また勉強させたいと願う親たちすべてに伝えるために阿部社長は告知を出すことにした。

 さらに被災者の状況を考慮して「一ヶ月間授業料をすべて無料」と大きく打ち出したのである。

 応募には200件を超す子どもたちが集まってきた。

 タダだから集まったのか。違う。学校再開の目途が立たない中、勉強したい子ども、させたい親は、それほどまでに「学べる場所」を欲していたのである。

 この大地震を受けて阿部社長は「被災してお金がないから塾を辞めさせたい」と申し出る親がほとんどだと思っていた。

 しかし現実は正反対だった。

 言い方を変えれば子どもを持つ親にとって、塾は「衣食住」と同じくらい必要なものだったのである。それは、長い目で先を見据えれば当然のことだった。

 衣食住をつなぐのは労働力であり、高い労働力を生み出すのは教育以外の何物でもないからだ。

 「塾は今の日本社会の中で必要とされているものなのだ」

 阿部社長はこの出来事を通して、それを初めて知ったという。

 ならばその期待に応えるべくがんばらなければならない。

 阿部社長は通常授業の再開に向けて災害用の備品を備え、震災マニュアルの作成をし、不安要素をできるだけ取り除いて2011年4月12日に通常授業を再開した。

(この頃、多くのホテルなどは需要の見込みが立たず閉鎖を余儀なくされたままだった)

 被災した塾生に関しては1年間の授業料無料も考えたが、一企業である以上それはできなかった。その代わり被災した塾生の保護者には見舞金として一律10万円を渡すことにして通常授業に踏み切ることにした。

 再開後の宮城ブロックでの塾生の出席率は非常に高かった。

 塾の授業料の支払いも91%となり被災後の方が例年を上回った。

 塾生の中には避難所の学校で過ごしていた子も多かった。彼らは子どもなりに家を失ったことで大きな絶望感を感じていたのだろう。しかし塾はそんな子どもたちをも絶望感の淵から救い出すきっかけとなった。絶望から抜け出し、前を向こうという子どもの強烈なパワー(学習意欲)が、塾を舞台に噴き出したのである。

 結果、5月末には一昨年並みの生徒数に戻り「塾は社会からその存在を強く求められている」と阿部社長は確信したのである。

 後に阿部社長は、被災した保護者の方々に「生きていく中でのプライオリティは何か」を聞いてみた。

 すると、「1に食」「2に教育」「3に住・衣」という答えが明確に戻ってきた。

 そして、この事実を裏付けるかのように、仮設住宅から塾に通う子どもたちの姿が多く見られるようになった。

 仮設住宅から通ってくる子どもたちは必ずやこの逆境を力に、死にもの狂いで勉強に立ち向かうだろう。

 「逆境バネに春つかむ―」

 そして、その子どもたちを、死に物狂いで応援できる「塾という仕事」を阿部社長は今、心から誇り思い、被災で得た多くの「気づき」を私たちに語ってくれたのである。

◆ 次回も引き続き従業員研修旅行のお話です


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