2006/10/02 
2008.07.08  

第2話 心と魂を扱う

教師になるつもりがなかったのに、教師になるような環境に導かれたということを前回に書きましたが、よくよく考えると、心の奥ではやはり教師になりたかったのでしょう。

21年間の教師生活は本当に楽しくやりがいがありました。教師時代についてはまたお話するとして、今回は、その大好きな教師を辞めてまで、こうして心と魂を、直接対象にする仕事に就くようになったのかをお話したいと思います。

 

 

実は、私は子どもを亡くしています。

 

結婚が23歳と早かったので、私が25歳のときに最初の子どもを妻が妊娠しました。なんと双子でした。

お腹の子どもはすくすくと大きくなり、私も妻も、お腹にむかって話しかけたりしながら、生まれてくるのを大変楽しみにしていました。

妊娠7ヶ月頃には、他の人の臨月ほど、お腹も大きくなりました。ところが、子どもが下腹のほうに下がらず、妻の胃や胸を圧迫し始めたのです。

 

妻は食事をするのにも苦しむようになりました。寝ていても苦しい状態になったときに、お腹の双子の一人の心音が聞こえなくなりました。その状態で一週間経った頃に、もう片方の子の心音も消えました。

そして普通のお産と同じように陣痛が来て、二人の子はこの世に出てきました。女の子の双子でした。生きていたらそのまま育つ状態でした。

妻には見せることなく、義父と一緒にお墓に連れて行きました。戒名も頂いて拝んでいただきました。

 

子どもを亡くしたショックより、妻が楽になってよかったと思いました。子どもはまた生まれる。しかし妻の代わりはない。そう思ったので、子どもが亡くなったことはあまり気にせず、話題にも出さず忘れるようにしました。

 

後から思えば、このとき、なぜこのようなことが起こったかをもっと追究し反省するべきでしたが、病気で寝込んだことがないというほど健康な妻が、産後のお医者さんの処理がよくなかったらしく、左足の太い静脈が詰って、足が倍ほどに膨れ、そのまま1ヶ月近く入院したこともあり、妻のことだけに気をとられていました。

 

 

それから一年以上経って、お医者さんから、もう子どもを作っても大丈夫との許可がやっと出ました。

今度は母子共に正常に育っていきました。

待ちに待って生まれたのは、男の子でした。男の子でも女の子でもいいと思っていたのですが、跡取りの息子が出来たということはやはり嬉しく、最高に幸せでした。

歯が良くない妻は、妊娠中は毎日、煮干を10匹以上食べていたせいもあってか、3750グラムもある健康優良児で、生まれたときから髪も黒々としていました。

母乳もたくさん出て、ゴクゴクとよく飲みました。ところが三日目に急にお乳を飲むときに泣くようになったのです。変だなぁと思って子どもの口を覗き込んだら、白いものが見えるのです。なんと下の歯が二本生えていて、歯が当たって舌の裏側が傷になっていたのです。お医者さんを呼びに行ったのですが、お医者さんも見るまでは信じませんでした。手で引っ張ったらすぐに抜けました。お乳を飲む時期の赤ちゃんには歯は邪魔なんですね。

 

姓名判断でいろいろ考えて、兼士(けんじ)と命名しました。

生まれたときに歯が生えていた兼士は、3ヶ月で寝返りを打ち、8ヶ月で歩き、1歳のときは小学校の滑り台を自分で登って滑っていました。同い年の子ども達より頭一つ大きく、保育園でも人気者でした。いつもニコニコと楽しそうで、「可愛いですね」と、知らない人が何人も声をかけてくるほど愛らしい子でした。

兼士が2歳になったときに、長女が生まれましたが、お兄ちゃんとしても申し分のないやさしい子でした。

 

兼士が2歳5ヶ月になったとき、私の父が岡山医科大病院に入院したのです。妻は5ヶ月の長女と留守番をして、私は兼士と二人だけで、三重から岡山まで毎週、近鉄と新幹線を乗り継いで見舞いに通いました。往復8時間もかかるのに、兼士は、一度もぐずったり無理を言うこともありません。いるだけでその場が明るくなる子で、車内の売り子の女性が仕事の手を止めてわざわざ相手をしていくほどでした。

 

今こうして書きながら思い出しても、特別な子どもであったように思います。

 

私が29歳の昭和52年の正月が過ぎた12日に、父が危篤ということで、三重から家族4人で病院まで駆けつけました。その日は父も亡くならず、待合室で兼士を抱いて一晩過ごしました。13日の日もまだ大丈夫そうなので、子ども達は妻と共に私の実家に帰したのです。

そして1月14日の朝9時頃のことです。母と私の二人で、臨終を迎えようとしている父を見守っているところへ、「すぐに家へ戻れ」という電話が入りました。父がいま亡くなろうというのに戻って来いというのは、誰かが亡くなったとしか考えられません。「気持ちを落ち着けなくっちゃ」と自分に言い聞かせながら実家に戻りました。

 

亡くなっていたのは兼士でした。実家の前を姫新線が走っており、線路を横切る農道で汽車を見ていて、風圧で巻き込まれたのです。

頭に包帯を巻かれてはいましたが、顔はきれいなままで、眠ったように横たわっていました。

 

私が実家に向っている間に父も亡くなりました。57歳でした。

 

 

結局、父の死に目にも、息子の死に目にも会えませんでした。

私にとっては父と長男を、祖父母にとっては長男と曾孫を、母にとっては夫と孫を同時に亡くしたのです。

 

病気の父のことは覚悟していましたが、まさか長男まで・・・・・・・。

 

 

一人では涙を流したけれど、家内の落ち込みもあり、私がしっかりしなくてはと、人前ではほとんど涙を見せないでいました。

学徒出陣で若くして散った日本戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』を読んだ方が「死んだ人々は生き返ってこないのだから、生き残った私達はどんなことに気づけばいいのか」と言ったということを思い出し、父も兼士も戻ってこないのだから、二人の分まで生きようと思いました。

悲しいけれど、「めそめそしていても仕方がない」と言い聞かせ気丈に振舞いました。

 

三学期が始まったばかりで休んでもいられないので、学校にも行き、普段の生活が戻ってきました。2週間3週間経ち、子どもの死は乗り越えたと自分では思っていました。

 

意識はあてにならない

 毎日、親戚や近所の方もお参りに来てくれたので気も紛れ、日は過ぎていきました。

「もう立ち直った!」と自分でも思っていました。ところが四十九日(しじゅうくにち)の納骨が終わった日から、私は3日間寝込んだのです。

意識では「もう子どもの死は乗り越えたのに、寝込むなんておかしい」と思っているのに、身体が動かないのです。驚きでした。「なぜ?どうして寝込むの・・・!?」

 

このときから私は、自分の意識していることや考えていることはあまり当てにならない、と思うようになりました。意識とは別のものがあるのだろうと感じるようになったのです。

 

 

双子の死で気づけばよかったのですが・・・

妻が思いもかけない病気で入院したときに気づけばよかったのですが・・・

父が病気で57歳の若さで、祖父母より先に逝くと分かったときに気がつけばよかったのですが・・・・

 

 

子どもを三人亡くしたこと、しかも父と長男を同じ日に亡くしたことで、命や運命や人生や神仏について考えるようになりました。

こうして見える世界と見えない世界について学びながら、心や魂を扱うようになっていくのです。

 

続く

 

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