2006/08/27
第1話 「血に観念し」志した天命に触った
「この道を歩く」 私の親
私は、昭和25年父豊田稔、母千代の次男として生まれました。
2男3女の末っ子として育った私は、父母が高齢になってから生まれた子だったので、兄弟との年齢差が大きく親子兄弟というよりは何か特別に保護されて育ちました。
父は舞台美術の「書き割り」の名人として、生計を立てていました。「書き割り」というのは、舞台の背景を描く仕事です。
母は、その手伝い・使用人の食事の世話・子育て・そして近所の若い子の食事の世話と忙しい生活のようでした。
そのような家庭の中で、私は父と話をした記憶がありません。その時を見ると「これはこういう仕組だ。」「ここはこう描くと分かりやすい」「そういう色の使い方はない。」というほとんど一方的な話でした。とにかく、50才の年齢差がそうしていたと思います。
私が質問した時にはもう違うことに思いを巡らしていました。
ただ言い残す言葉は「勘考しろ」という一言です。 「勘考」とは、よく考えること、様々なことに思いを巡らし最良の方法を見つけること、そして父が最もこだわったことは「美しい」「新しい」ということです。
「結果表現が悪ければ考え方に何か間違いがある。」というのが持論のようでした。「のようでした」というのは小さい私にそんなことはつゆ知らないことで後年母から伝え聞いた事です。
従って即答は父が最も嫌う態度でした。
しかし、母は即答できない者はそのことをする資格がないという人でしたので、子供心に対応に困っていました。
父は「書き割り」の仕事がしょっちゅうあるわけではないので、その間副業なのかこれも本業なのか様々なことをしておりました。
野球盤の考案、幼心に残っているその野球盤で遊んだ記憶があります。
選手は木製で彩色され、投手はバネ式でオーバースロータイプでした。父は元職業野球の選手でしたので、そのこだわりはかなりのようでした。そのリアルさは思い入れの証しだったのでしょう。
私の家の食器棚の引き出しは選手達のダッグアウトでした。これが日本初の野球盤で、今日の原型と聞いております。
もう一つ、鮮明に記憶していることは、歌舞伎大好き人間であったこと、父の姿は今でも歌舞伎役者の普段の姿を見るたびに思い出します。髪型・立ち振る舞い・所作、今書きながらも父はタバコを吸うのもキセルを使っていたと突然思い出しました。
その歌舞伎の名作、忠臣蔵の一場面をダイナミックに表現したいと思い、討ち入りの場面から一瞬に清水一学の橋の上の大立ち回りへと、まるでジオラマのように場面が回転するという現在の回り舞台の原型と後年聞かされましたが、その父の舞台を見た時に「息をのむ」という感覚を初めて感じたような気がしています。父は昔役者もどきの事をやっていたらしく(母伝)これも思い入れの表れだったのだと思います。
この道を歩く
母に聞いた話では、父は元々騎馬兵でカッコ良い人だったらしく、身長も当時としては高く人の上に立っていた人らしいです。
明治生まれの父らしく私に形を持って教育した事は、私自身が自覚したのは「五箇条のご誓文」でした。私はこの第一項のみで世の中を渡ろうとしていた時期があった事をいまでも明確に覚えています。そして、無意識のうちに「ご誓文」の通り動いていました。
父は私が小学生のころから闘病生活に入り16歳の時に他界したので本当に話をした記憶がありません。ただ今でもその存在感というか、何か「塊」のようなものが残っています。
「美しい」ということと「表現」ということにこだわり抜いた人、そしてそんな父がいつも相談していたのが母でした。
母に「どうだ?」と聞くと母は「もっと何々。」と答える、そんな繰り返しの中で父は「勘考」する、そんなやりとりが数日続いた後、やっと父は書き割りを描き出す。それは今でも景色のように覚えています。
舞台は暗いからということで必ず夜から描きだし、家の前の材料置き場というより表通りで舞台と同じ大きさに書き割りが組み立てられ照明がつけられ描き出されます。
大きく筆が動く、大きくハケが動く、完全にパフォーマンスです。町内でも名物なので人が集まり子供心に人前で恥ずかしくないかと思っておりました。
父は普段と変わってアーティストになり、あれだけ母との話の中で悩んでいたのに本番になると大勢の人の前で一気に描き上げ、最後に波しぶきはバケツごと絵の具を画面にぶつけて終わります。
そして何事もなかったように明日の舞台の手配を職人達に伝えて仕事を終えます。
まるで、花火の後のような感じが残っていたのは今でも覚えています。
母の「ああやっと終わった。」という言葉が聞こえてきます。
翌日、舞台を見に行くと暗い中で照明テストが行われたのですが、「セントラさんいいですか?」(このセントラというのは父の屋号でセントラル美芸社というりっぱな名がありました。)の声で照明が付けられ、家の前で描かれた絵が輝き、まるで嘘のような世界!あの母とグダグダして酒に逃げた父の絵が輝く!私の心の中で「スゲェ!」とワクワクする気持ちと何か気恥ずかしさが残ったものでした。
そしてその舞台が始まり、その前で有名な役者が演じているのを見ながら、父が職人達に伝えていたことは「この場面は、このシーンが見せ場だからあの木の枝ぶりと色を勘考していたんだ。役者の衣装と良く合っているだろう。」というものでした。
この道を歩く、多分私の最初の決心であり「創造」との出会いであったように思います。
継いだ天命
やろうとしてやらない、行こうとして行かない、決心したのに出来ない。
経験的に先に来る苦しみを回避しようとします。私には出来ないという深い溝を作ります。どうしたら前に進めるだろうか、夢ははっきり彩色され、いつも自身の中に存在しています。しかし、現実にははっきりと向かわない自身がいます。
10年、20年と時が流れ、あっという間に時が経ちます。振り返ってみれば、随分逃げたわりには前進していることがわかります。
そして、自身の戦いの跡が結果となって現れています。
苦しさと困難を結構楽しんだ自分が見えます。困難を共に戦った人達と苦楽を生きた時代が思い出されます。
誰の為に、何の為にと考えめぐらし、自分の為ですと言い切れない自分がいました。
自身の目的を曖昧にしたまま、自身の目的を宣言しないまま、仲間に協力を求めてきました。優しい仲間に囲まれて、その時の心地良さと安心感だけでお互いに行動してきました。どこに向かうかもわからないまま、行動していることに安心感と共感を持ちながら行動してきました。
そして、そんな中で自身の目的が見え出してきて、突然自分の動きが激しくなり、自由に行動することが自由であるという思いが強くなりだします。周りの反対に合いながらも、自身に見えたものは、自身にしか見えないと思い目的を宣言しました。
「作家になる。」自分の内発的なものが
もの凄い勢いで出だしてきました。
自分の中の知の総量が見え出してきました。
今動く、目的に向かい真直ぐ向かうという気持ち、思いが止められないという思いでした。
困難に笑顔で向かう自分がいました。
枯れることなく湧き出るエネルギーを感じました。
血が沸く、熱い血が騒ぐ五体に血が流れる、一つ一つの糸がほぐれ出すような感覚です。
可能性があったものが現実になり、今急いで現実側に倒れ込もうとしている自分が見え出しました。
困難の糸から解放されていく、今までに棄ててきたことに後悔を感じなくなる。
可能性の世界から実現の世界へ体が宙を舞う確信が、片手に何か掴んだような触感が感じられてきました。
志した天命に触った、少し触った、なぜか大きな自信というか支えを感じています。
「血に観念する」という感覚が、どこかに生まれました。継いだ天命に触れた、覚悟したという感覚を今持っています。
昔、読んだ書物にこう書いてありました。五福の一つとして、「天命を以って終わることなり」「血に観念する」「知に観念する」私の掴んだことです。