2006/09/11
2008.07.08 

第2話 「日本との遭遇」

日本との遭遇

私は茶道や能楽、書道、陶芸といった日本的な文化が息づく環境に育ったにもかかわらず、中学生の頃からアメリカと中国に憧れ、日本や日本文化には、ほとんど興味がなかった。

 

ところが、米国の留学生活で、日本を出て初めて、日本を体験することになった。つまり、自分がいるところを離れて初めて、自分が「どこにいた」のかが、わかるようになったのだ。

 

私が住んでいたアメリカのカンザス州は、アメリカの中西部の大平原のど真ん中にあり、ハートランドと呼ばれている。オズの魔法使いの舞台となった場所でもある。日本人は極めて少なく、私は日本語に飢えていた。

 

当時、日曜日の朝8時から日本文化の番組をTVでやっていた。永平寺の修行僧のドキュメンタリーとか、桂離宮、能楽など、日本にいたら多分、絶対見なかったものを見ることができた。私は一年も経たないうちに、日本をなにか特別で、かけがえの無い国だと思うようになっていた。

 

大学の図書館は、森に囲まれた小高い丘の上にあり、夜の12時まで開いていた。そこには、1ヶ月遅れの週刊朝日、それから文芸春秋、中央公論など、日本では絶対に読まない、あまりにも堅い雑誌が置かれていた。

 

おそろしいことに、私は、それらを待ち焦がれて、丹念に読むようになっていった。環境の大きな変化は、人に「自分は誰か」を突き詰めさせてくれる。ペリー率いる黒船が、開国を迫り、日本に大きな変化、明治維新をもたらしたように。

 

歴史上の日本人との出会い

日本の留学生たちは、卒業時に、たくさん小説や歴史に関する本を残して去った。それらが図書館に寄贈され、戦国武将とか明治維新の志士たちなどの小説を中心とする歴史本が、棚に並んでいた。

 

棚に並んだ本を見ながら、日本から来た留学生たちが、なぜこのような小説を読んでいたのかが、痛いほどわかるような気がした。彼らは、キリスト教文化とアメリカ合理主義の中で、意識しようとしまいと「自分は一体何ものなのか」という問いの答えを、出そうとしていたのではないか。

 

多感な学生時代に異なる文化の中で、日本人であることを生活の中で体験すると、自分とは何だろう、日本人とはなんだろうというテーマが突きつけられる。そうすると、日本のことが、どんどん頭の中に入ってくる。

 

私は、日本の留学生たちが残していった歴史本や小説を夢中で読み通した。しだいに、その中の人たちの生き方に、惹きこまれていった。

 

江戸時代の初期、島原の乱が起きた。キリスト教信者の多い島原や天草地方の百姓達が領主の過酷な圧政に、止むに止まれず決起したのだ。わずか17歳の天草四郎時貞が総勢3万7千ともいわれる百姓や浪人たちと、12万もの幕府軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げ全滅した。

 

司馬遼太郎の本のなかで、高杉晋作は「死ぬときはドブのなかで、うつ伏せで、前のめりになって死にたい」と書いてあった。高杉は、「この世で成功したいとか、天国に行こう」とは夢にも思っていなかった。ただ、日本の国のためなら、捨石になっても構わないと考えていた。

 

坂本竜馬は、薩長同盟の立役者であり、現代の商社ともいえる「亀山社中」を設立し、新しい日本を造るために奔走したが、明治維新の成功を見る前に、京都の近江屋宅で何者かに殺害された。

 

西郷隆盛は明治政府に反抗して、勝ち目のない西南戦争を起こした。子々孫々に到るまで、朝敵と批判されることを覚悟していたことは明らかだった。

 

戦国時代から明治維新に至る立役者たちの多くは、この世で成功を謳歌することもなく、現世に別れを告げた。「志しながら倒れた」のだ。志に生き、志に倒れることを覚悟していた。私には、それは衝撃的なことだった。彼らは、そこまでして何かを残さなければならなかった。

 

日本人としての自覚

これらの人たちは、「成功すると確信したからやったのではなく、失敗するからやらなかったわけでもなかった。やると志したからやったのだ」という想いが、私の胸の中に湧き上がってきた。このような人たちは、私が米国の学生から体験した、「天国に行くために生きる」、あるいは「未来の経済的成功を成し遂げる」という基準に照らしても、明らかに成功者ではなかった。

 

だが、なぜか日本の歴史上の人物の生き方に、震えるような共感を覚えた。彼らには、事の成否がもっとも重要なことではなかった。志に生きることが魂の核にあった。少なくとも私には、そう思えた。

 

もう一人の日本人との出会いがあった。それは「武士道」という本を書いた新渡戸稲造である。新渡戸は、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受け、キリスト者となった。東京帝国大学の教授、国連の事務次長にまでなり、カナダの小さな町ビクトリアで、客死した。

 

新渡戸稲造は、高名な法学者ラブレーの自宅に滞在したとき、「日本では宗教教育をしない」と言ったことに対して、「それでは日本人は道徳を学ぶことができないではないか。どのように子孫に道徳教育をするのか」と問われた。日本は非常に道徳心の高い国であったにも関わらず、新渡戸は即答できなかった。

 

しばらくして、家庭における武士道の教育が自分の中にあったことを見いだした。日本人として、それに答えなければと、「武士道」という本を書いたのだ。

 

これは新渡戸の武士道であって、真の武士道ではないという批判もある。だが、これは偏狭なナショナリズムではない、世界中で受け入れられる普遍性の高いものだと、私は確信する。事実、「武士道」は、歴代の米国大統領にも読まれ、100年以上に渡った今も世界中で読まれ続けている。

 

私は、これらの歴史上の人物との出会いによって、天国を熱望していない、この世の経済的な成功も切望していない自分を、遠く米国の地で肯定することができた。

 

武士道の消滅と復活

明治時代に書かれたその本の中で、新渡戸稲造は、西欧の文明潮流の中に、武士道は、その姿を全く消してしまうだろうと予言していた。たしかに、いまでは新渡戸稲造が書いた日本人の核は、消えてしまったかのように見える。つまり、武士道は消え去った。新渡戸の予言は的中したのだ。

 

今、私は日本が無くなってしまうような、寂しさを感じている。

 

このようなことを書くと、あなたは、私が復古趣味の時代遅れの人間だと笑うかもしれない。あるいは、軍国主義の復活をもくろむ「悪い人」だと怒るかもしれない。

 

たしかに昔の封建時代の武士道「そのもの」が、21世紀の「今」に甦ることは難しいかもしれない。また、それは好ましいことでもないだろう。

 

実は新渡戸稲造は、もう一つの予言を最終章で残している。

 

「何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、その香りは、遠い丘から風に運ばれて、必ず蘇ってくるだろう」と。

 

制度としての、戒律や教えとしての形ある武士道は、もはや蘇ってはこない。しかしその香りは、蘇ってくると!

 

では、その蘇る「香り」とは何だろうか?私たちはその日本の伝統から、何を受け継ぎ、何を守らなければならないのだろうか。

 

ここでの私の目的は、その香りを、今の世に、現実のものとして顕わすことにある。

 

日本の歴史に流れるものは、「志に生きる」ことであると私は考えている。これは、国家的なスローガンでもなければ、道徳的な教えでもない。それは市井の人たちの日常の生活の中にあるものだ。その「香り」は、人の生き方から自然に醸しだされる。

 

もしあなたがこれを受け入れるなら、日本の伝統文化の底流にある、爽やかで凛とした「香り」を、あなたの実際の生活に、人生に蘇らせることができると確信している。

 

この「香り」は、志を持って生きた人たちを、生み出した文化そのものから運ばれてくる。私はそれらを生み出した文化、つまりその中にある生活環境の本質を、「サムライ時間」として現実化する方法にまで踏み込み、それをあなたと共有したいと思う。