2010.03.22  

第18話 「自分とは誰か」 

前回は、あるものを「ある」として見ることの大切さを話した。
今回は、さらなる質問を自分に投げかけることで、人間の真実を深めたいと思う。

あなたは、「自分は誰だ」と思いますか?

これは、古来よりさまざまな哲学者や宗教家、神秘家によって発せ続けられてきた問いでもある。

私たちが自分に投げかける究極の質問は、「私は誰か?」である。
この質問に、あなたはどのように答えますか?

この答えは、三つある。これらを知識のレベルでとらえないでほしい。これらの答えは高度に抽象的でありながら、日常で、人生で実際的な違いができてくる。

したがって、自分が人生で三つのうちどれに立脚しているのかという「在り方」のレベルで探求してほしい。

一つ目は、「自分とは心だ」というあり方である。私は、これまで「心は自分の一部であり、本質ではない」と言ってきた。「心が自分である」という立場に立つ限り、有限な肉体の声が自分である。つまり、「肉体である自分」だ。

それは、環境次第の自分であり、ころころ変わる心の声が自分だということになる。
しかし、それはあくまで自分の一部分であり制限された肉体の声であって、自分そのものではない。

二つ目は、「自分は天命である」というあり方である。
人にはそれぞれ固有の天命がある。

肉体を持つが故に、遺伝的にも、経験的にも、知識的にも限界がある。
だからこの肉体でやれることは小さなことであり、それゆえに、自分が人生でやるべきことが絞られ、その天命にそった生き方ができあがる。

だからこそ一人ひとり天命が違い、それこそが個性であり自分であると思ってきた。
 そして人それぞれが持つ小天命ともいうべきものと関わることが大切なのだと。

つまり、「小天命としての自分」が本当の自分だということになる。これは肉体に限界づけられた天命が自分であることを意味する。

ここに立つことで、自分の精神の大きさは自分の肉体に制限を受けることになる。

しかし、これ以上の自分が存在することが、私たちの探求の過程で明確になってきた。
 第三の自分とは、「大精神としての自分」である。

肉体から離れた自分は、一体何を望んでいるのか?

それは「もし自分の肉体がなかったらあなたは何をする?」という質問から導かれる。
 つまり、肉体の限界がなかったらあなたは何をするのかと自分自身に問うてほしい。

私は、多くの人たちと「この問い」を道場で探究してきた。

この問いから出てくる答えは、表現に多少の違いはあるものの、本質は同じものだった。
 肉体の制限を受けない自分とは、皆同じであり、全ての人はこの大精神ともいうべきものを持っている。

私たちは皆、人々が幸せで、平和で、生き生きした世界を望んでいるということだ。

「それは地上天国だっていうこと?」とあなたはいうかもしれない。
さらに「それは単なる理想であって、実現不可能な誇大妄想じゃないか。現実的ではない!」と思うかもしれない。

確かに自分のことを実際以上に大きな存在だと思う人たちがいる。 つまり自分の精神は大きく、なんでもできると思っている人たちだ。

これが行き過ぎると誇大妄想狂と呼ばれる。 英語では、megalomania だ。

誇大妄想があるなら、当然、誇小妄想(卑小妄想)狂もあるはずだ。
自分のことを実際以上に小さく見ているひとのことだ。

実際にはこの誇小妄想の人たちが断然多い。いやほとんどだと言っていいだろう。

本来人間は、皆が幸せで生き生きとした世界を望んでいる。 つまり、大きな精神の持ち主であるにも拘わらずだ。

その証拠に、子供のTV番組や絵本を読んでも、それらは宇宙大の話である。皆さんも子供のころ、皆地球防衛軍となって世界を救うために遊んでいたはずだ。

しかし大きくなるにつれて現実の壁にぶち当たり、そんなこと無理だと思うようになる。
 「そんなことは理想であって自分や家族、会社のことで精いっぱい。とてもそんな余裕はない。」

だからいつの間にか、現実や理性の名のもとに、自分の精神まで小さいと思うようになる。これが誇小妄想だ。

多くの人たちは、理想と今の自分を比べて、非力を嘆き、自分を責めている。自分=肉体であるなら、自分の精神は物理的な限界の枠に閉じ込められ、その小ささゆえに苦しむことになる。

自分の精神の大きさと肉体の限界を区別して考えられないようになるのだ。

しかし肉体から離れた私たちの精神は、今も変わらず大きく偉大だ。これは理想でも誇大妄想でもない。事実なのだ!
 
 「自分の精神は大きい。そして肉体的な限界を持っている」という視点に立つことができる。これが実際にあるものをあるとして見ることができる現実主義者だ。

自分の精神の大きさから、自分の肉体で何ができるかを冷徹にみることができる人が現実主義者なのだ。

そのとき、大きな精神を持った自分が、この有限な肉体で何をするべきかと思うのだ。
当然、自分の肉体でできることは限られている。

だからこそ自分の肉体でできることをやり、大きな精神からそれぞれ違う天命を持った人たちと繋がろうという発想が生まれてくる。

「自分には大精神があり、この有限な肉体を持っている。しかもその大精神は、大和の世界つまり、幸せな世界を創るという共通の意思である」との自覚に立つことができたとき、自分も他の人たちもすべて大和を実現するための資源(リソース)となる。こうすれば、その大精神が現実になり、実際に世界が変容していく。

自分には大精神があり、すべての人たちは大和を実現するための資源なのだ。この位置に立つことができるなら、他の人に依頼をすることも、耳の痛いことをいうときも躊躇は必要ない。なぜなら相手も大精神の持ち主であり、しかも大和のためのリソースであるからだ。

これが本当の現実主義者であり、徹底的現実主義者(radical realist)である。有限なサムライ時間を意識して生きるサムライは、徹底的現実主義者である必要がある。

                       第19話につづく