2006/09/18
2008.07.08 

第2話 夢の世界から現実の世界へ

私の生まれは京都府の田舎で、いわゆる丹波の山猿です。

私が生まれてすぐ、両親は大阪に出ましたので、私も浪速の都会育ちとなりましたが、根はやはり垢抜けのしない田舎者です。

私の住んでいた所は大阪でも有数の激しい無法地帯でした。

中学生ともなると学校内はまるで修羅場です。恐喝、集団暴行、シンナーなどは日常茶飯事で、先生も生徒を怖がって逃げていたくらいでした。先生もいい加減な人ばっかりで、素行の悪い力の強い生徒に媚を売り、弱い生徒が暴力にあっても知らんふり。

そんな様子を見て子供心に「なんて無責任な」と人間不信になりかけたものでした。ですから、まったく学校や大人はあてにならず、自分の身は自分で守らねばならないと思いました。

そんな劣悪な環境もあいまって、武道の世界に入りこんで行くのは自然な成り行きかも知れませんでした。それは自分を守るということと同時に、弱い者らを助けてやりたいと言う正義感の発芽でもありました。

破邪顕正」それがスサノオの神話の基本精神であるのと同時に、理不尽な悪への憎悪も、こういった弱肉強食的な環境にあったお陰だと思います。ですから、いまは当時のことに対し感謝の気持ちで一杯です。

このように一編のアニメがその後の私の生き方の基本になり、またそういった場の遭遇もあって自分の歩むべき人生を早期に決定できました。
 武道も、即戦力として役にたつものを探しました。自分にとって、それが空手だったのです。家から自転車で一時間もかかるようなところに小さな空手の道場がありましたが、稽古には雨の日も風の日も必死で通い詰めました。

今でこそ空手と言えば知らぬものは無いほどの存在になり、道場もここかしこと出来ていますが、まだ当時は、今のように空手そのものが知名度のない時代でした。道場も大学が主流で、一般の町道場は本当に少ない時代でした。ですから空手道場そのものを探すのに随分苦労しました。

「カラテ?・・・何やそれ?柔道みたいなもんか?」

柔道は映画「姿三四郎」などで知られています。だから武道と言えば剣道か柔道が基準だったのです。映画では「空手使い」はいつも悪役でした。当時の正義の味方は柔道を使っていました。空手は乱暴もののするもの。世間の人たちは、そんな認識しかありませんでした。ですから「空手を習いに行く」と母親に言うと「そんなヤクザみたいなことやめとけ」と叱られたものでした。

口やかましい母に比べ父は何も言いませんでした。むしろ武道をやると言うことはいいことではないかと言う顔をしていました。おとなしい父は、それでも戦時中は満州に赴いていて、階級は軍曹でした。

そんな父の正体を知ったのは、ある日のこと、父のいない間に父の箪笥をまさぐっているとなにやら珍しい物がいっぱい出てきたのがきっかけでした。

先頭で馬に乗って一個部隊を率いる父の勇ましい写真や箱一杯の勲章が見つかったのです。大勢の兵隊を指揮する写真の数々と勲章の現存は父のもう一つの顔を見たような気がしました。私も考えたら、武道と言うジャンルを選択するのは父の血かも知れないかな・・・とも思いました。

母にいくら言われても諦め切れず「空手をやりたい」と言い続けましたが、母は頑として譲りませんでした。そこへ父が見かねて助け舟を出してくれました。「もうええやないか寿子・・・比良聖の思うようにやらせたれや」それでようやく許してもらえました。

そんなにまでして習った空手ですから、意地になって一所懸命稽古しました。学校から帰るとすぐ稽古着を引っつかみ、自転車に飛び乗って道場に向かいました。

道場では子供がおらず、いつも私は大人相手に稽古をしていました。技が切れて大人をもてあそぶので、子天狗などと言われ調子にのったこともありました。道場の先生には私と同じ歳のお子さんがいて、私の登場で丁度稽古相手が出来たと、たいそう喜んでくれ人一倍眼をかけてくださいました。先生自ら指導してくださり、私もそれに答えようと頑張りました。

続く・・・