2006/09/25 
2008.07.14  

第3話: 極真最強「ケンカ十段」芦原英幸の内弟子へ

 高校へいく年齢になると、世間に空手の名が一躍世に出る事件が起きました。梶原一騎氏原作で「虹を呼ぶ拳」と言う劇画が少年誌に登場し、また「空手バカ一代」という作品も続いて出たのです。この劇画の登場は空手をやる者に限らず、当時の血の気の多い若者には本当にショッキングな事件でした。

人が巨大な牛を一撃で倒す・・・それは私が待ちに待った現実に存在するヒーローの登場でした。稽古をすれば自分もそんな超人的な力を持つことが出来るのか・・・と興奮したものです。

 

 漫画の影響は強いもので、回りの空手に対する見方が変わっていきました。いずれも「牛殺しのマス・オーヤマ」と言う異名をもつ実在の空手家「大山倍達」をモデルにしたもので、劇中に時折紹介される大山空手の強さを知るたびに、血湧き肉踊る思いがしたものです。

 

 漫画やマスコミの影響とは強いものです。雑誌やテレビで伝えられるこの大山倍達の登場で、世間の空手に対する認識は一気に変わっていきました。その手はゴッドハンドと言われ、手刀一閃でビール瓶の首をふっ飛ばし、自然石を打ち砕く破壊力をもっており、海外で、名うての大きなプロレスラーやボクサーなどの格闘家たちを空手の技一撃でことごとくしとめたと言う話は、まだ根強く外人コンプレックスをもっていたわれわれ日本人にはなんという痛快な話なんだろうと思いました。

 巨大な牛を一撃で倒す・・・・私にとっても、これはスサノオのオロチ退治に匹敵するような話でした。

 

 大山館長は、東京に極真会館と言う道場を構え、実戦空手を提唱していました。また千駄ヶ谷の東京体育館で、いままでの空手の寸止めルールを廃し「顔面と金的以外は打撃可能」という当時としてはまことにセンセーショナルな試合を開催しました。

 

 マスコミにおいては、「一撃必殺の空手技を当てるなんて無茶だ。きっと殺人ショーになる」「いや、空手が本当に一撃必殺の力をもつものか確かめれるいいチャンスだ」などと随分賛否両論を呼び話題になりました。当時、空手と言えば寸止めが主流で、そんな空手をやっていた私は、非常にストレスを感じていた時でもありました。少し上達してくると「こんなので強くなれるのか?」「当ったら本当に倒れるのか?」と子供心に疑問に思ったものでした。

 

 「本当に自分は強いのだろうか?」いくら稽古をしても満足感が得られなかったのです。第一自分が信じれなかったのです。その「寸止め」と言う当てない稽古が不信を募らせ、ストレスを増していきました。そこへ「牛殺しのマス・オーヤマ」のニュースが舞い込んできたのです。これはやらねばと思いました。格好ばっかりつけてても仕方が無い。本当の殴りあいに強くならねばと思ったのです。

 

 この人の空手ならきっと強くなれると思いました。それで、学校をサボって東京通いが始まったのです。当時の極真会館は、いまのように全国に支部がない時代でした。東京の池袋に道場があった程度です。アルバイトを一生懸命して交通費を稼ぎ、貯まると電車に乗って東京に稽古に行ってました。ですから、高校を卒業すると、すでに進路は決まってました。もちろん極真の内弟子になることでした。しかし、私が選んだのは、東京の大山倍達ではなく、四国の芦原英幸と言う人物でした。

 

 芦原先生は、もちろん大山館長の弟子ですが、当時極真最強と言われた実力ある師範でした。「ケンカ十段」などと異名をとるほどの実戦派だったのです。十数人のヤクザを全員倒したとか言う武勇伝も数多く、また、その技術も垢抜けた技を有しているため極真の猛者たちの誰もが芦原英幸に一目も二目も置いていました。

 

 東京の本部道場へ行ったとて大山館長はめったに指導されないだろう。変わりに指導員が号令をかける程度だ。それなら、どうせ習うなら直接指導してくれる最強の師範の元に行こう・・・と思ったのです。高校を出たあくる日、カバン一つぶらさげて大阪港からフェリーに乗り、芦原先生の道場のある愛媛県八幡浜市に行きました。内弟子は私以外に全国から多くの若者が芦原先生を慕って集まっていました。

 

 その生活、および稽古は想像以上に過酷なものでした。その様子はまたご紹介したいと思いますが、今考えれば、本当に通常の生活では得がたい経験を積ませていただいたと思います。内弟子では最短コースで指導員に昇格し、同時に全日本選手権の四国代表選手に選抜されたのです。当時、芦原英幸の弟子というだけで皆から一目おかれていました。しかも、そこの指導員で、おまけに全日本選手ということになると注目も多く、それ以上に自分のプレッシャーは相当なものがありました。

 

 芦原英幸の技は、当時の空手界にあって革新的な技術を有してました。踏ん張って、正面からにらみ合う硬い動きを廃し、ステップを使ってリズムをとりつつ、相手の死角に回り込みます。そして死角から肘打ちや膝蹴りを放つという、本当に実戦的な技を稽古させられました。体力を養成するのにウェイトトレーニングを導入し、巻き藁に変わってサンドバッグやパンチングボールを使う稽古法は、古い鍛錬法を行う空手界にあって革新的なものでした。グローブを着用し、リングを作り、キックボクシングの練習もしました。そういった試みは当時の空手界からは「そんなの空手じゃない」と非難されました。

 

 しかし、その先生の圧倒的な強さと華麗な技の数々は、我々弟子を通して着実に世に広がっていきました。その合理的な技術や強さは、やがて人に感動さえも与えるほどとなり、徐々に空手界の稽古のありかたさえも変えていきました。現代、日本各地の空手や格闘技の道場で行われている稽古法や、空手の技術は芦原先生とともに、私たちの行ってきたことが主流になっていると言っていいでしょう。

 

 私は現代、もう空手の世界から離れましたが、若い時期、私たちのやってきたことが世の中に広がっているのを見ますと、まことに面白いことだと思います。良い時に良い師に恵まれ良い指導をいただき、そして良い出会いを重ねて今の自分があるのですから。

続く・・・