2007/04/09  
2008.09.15   

12話 「気合と殴り合い」

人は呼吸することにより、その息の強弱、及びリズムに乗って行動します。

 

武道に「気合」といわれるものがありますが、気合は、この息の強弱、リズムの特性を充分にいかすための術です。

 一般に使われている気合は、例えばピストルでいえば爆発音のようなものです。「バーン!」という発射音で弾丸が飛び出します。技を発するにおいては「エイッ!」という音声で突きなどが飛び出します。その時は、瞬間ですが、驚くべき力を生み出します。車で言えばターボエンジンのようなものです。俗に火事場の馬鹿力と言われるものがこれにあたります。

 その爆発音的発声により、体内に麻薬にも似た分泌物が発生し体内をめぐります。それは恐怖を克服し、痛みを感じる神経を麻痺させ体と心は一瞬鉄の用に堅固になります。

 

喧嘩になったり、夢中になったりした時思わず大声を出すのもこの作用からです。
動物が吼え、ヤクザが大声を出す・・・そういった他を威嚇する行為も、気合の原理のひとつでしょう。

 我が国でいう「気」は息であり、呼吸です。(イキはまた「水火」と書きます)それは文字通り自分と相手、そして自分と自分の「呼吸(気)を合わせる」ことです。

 しかし、真に呼吸を合わせるとき、そこには声は無く、ただ静寂があります。これは高いレベルの気合です。

 

気合を出す初歩の訓練に、さっきも紹介しました「声を出す」という訓練がなされますが、これは反作用をもって、本来を知るための方便であります。ですから本来「気合を入れる」とは、決して大声を出すことではないのです。

 ちょっと深入りして説明します。

 すべての日本語には「アオウエイ」の5声が含まれています(五大父音といいます)。この父音のどれが含まれているかで、魂の宿り方が異なります。そして日本には一霊四魂(いちれいしこん)の思想があります。

 また声には力の作用があると言われています(前後・上下・左右)。

●一霊 〜   直霊「ウ」(省みる心)・・・前後
●四魂 〜   幸魂「ア」(愛する心)・・・左右
         和魂「オ」(親しむ心)・・・上下
         荒魂「エ」(勇むる心)・・・上下
         奇魂「イ」(智恵の心)・・・左右

 このように、どの音声を用いるかで宿る霊魂が異なり、またその行動も異なります。

 

裂帛の気合もろともに・・・の先にある、闘争を超えた気合を顕現させたのが、近年では合気道創始者の植芝盛平師、また親英体道創始者の井上鑑昭師です。

 両師ともに日本古来の神道の教えに帰依し、凄絶な鍛錬の結果に開眼し、ついに神の守護を受けて武道を創始した武道家たちです。彼らは気の流れの実在を具現化することを生涯の道とされました。

 競技化されたものの中によく「声を出せ!」とか「気合入れて行こう!」などと言いますが、万物の真正に迫るとき、自ずと単に表面を叩くような音声を発せず、深く静かに浸入するような体制になります。つまり静寂の気合です。


神道では「幽斎は霊をもって、顕斎は体をもって」と言われます。 武の技も顕斎から幽斎へ入っていきます。その技の変遷は、「動から静」への移行であると存じます。

 技が向上しますと、螺旋で言えば大きい円周から渦巻いて、徐々に中心点に帰るように、 わずかな動き…いえ、まったく動くことなく技を使い出します。(「剛→柔→流」の変遷)

 理想として、どたばたと足音を立てず、 奇声を発せず、流れるような動きでお互い 稽古出来るようになれば最高です。こうなればもう天国の武道です。

 そこには競争意識も無く、ただ相手との、また自分との技の流れの中にあることを無邪気に楽しむ世界があるだけです。

  気合の話になりましたので、気合と言えば格闘を想像すると思います。少し下賎ではありますが、ついでに殴り合いの心理について述べて見たいと思います。

 私はご承知のように、以前は空手の世界にいました。常に試合を前提としたスパーリング形式の殴り合い、蹴り合いの練習に汗した日々でした。


ノックダウン形式を採用する組織におり、 毎日戦々恐々として暮らしていました。

 いつも対戦相手のことを考えては脅え、 自分を奮い立たせるために大言壮語をたたき、戦闘的になるため肉食を主にし、気を荒らげるため大酒を飲み、練習以外の日は戦いの恐怖からのがれるため、仲間と低俗な遊びにふけりもしました。これが格闘の世界の人間たちの素顔です。


しかし、表向き真摯な武道家を装い、いい子ぶって謙虚な風をしていますが、内心は

まったく逆のことを思っていました。

 

格闘(スポーツを含め)をやるとは、結局情けを棄て、獣同様の心になって、自分だ

けが生き残る「われ良しの心」と、すべてを破壊する根性がないとやっていけません。そのように、野獣のような体力と精神を得ることをいつも切望していました。

 小さな子供たちに偉そうに「青少年健全育成」なんて掲げていますが、選手たちはも

とより、師範たちもそんなことは単に隠れ蓑的論理に過ぎません。ただ自分の強さを誇

示し偉ぶるだけのことです。本当に青少年の健全な育成を考えるなら人を競わせ、傷つ

け合わせない方法を選択するはずです。

 

生き残りを賭けて若者たちに戦闘(競技)をさせ、生き残った者こそ英雄だと言うよ

うなスポーツを通して何で健全な精神が身につくというのでしょう。

 ただ相手を叩きのめす技術を身に付けるのに必死ですから。自分のことに一生懸命で、

人のことどころじゃありません。

 一端試合台に、もしくはリングに上がる前などは、たとえそれがチャリティーと言うボランティアの場であっても、もう誰々のため・・・なんてことはこれっぽっちも浮かばず、ただ怖くて震えています。しかし、そんなこと誰にもいえないので「あんな奴たいしたことない。一発で終わりさ!」なんて偉そうなこと言って自分を鼓舞し、恐怖心をごまかします。

 さて・・・鮮血の修羅場、殴り合いの開始です。
 

試合では審判の「始め!」の合図で蹴り合い、殴り合いが開始されます。相手を舐めた態度でふてぶてしく攻めます。もう技らしい技などなく、「絶対さがらないぞ!」と言う
不退転の精神で、前に前に出て行くことしか頭の中にはありません。

 下がったら負けだと思い、ひたすら前進を続けます。腹が、顔が殴られて痛い。苦しい。怖い。顔に打撃を受けると、なぜか火薬くさい香りがします。

 相手の攻撃が皮膚に当たり、肉を通して骨に衝撃を加え、熱を生じ、そこに骨の中にある鉱物に似た何らかの成分が抽出されて匂いを感じるのでしょうか。

 腹に攻撃を受けると、息が出来ず、重苦しい鈍痛に襲われます。膝蹴りなどであばら骨をへし折られた時には折れた骨が内臓にちくちくと刺激します。

しかし、ここまで殴りあうと、体の神秘と言いますか、ある種の麻薬に似た分泌液が体内で発生しますので、緊張が続く間はあまり痛みを感ずることなく、立って居られます。

 修羅の場とはこんなものか・・・と思われるほど、観衆も一体となって相手を罵る罵声と、自分の立場を保持しようとする、地獄のようないやらしい感情の坩堝が会場に出現します。

 ちょっとでも形成が不利になってくると、負けたらどうしよう・・・ かっこ悪いな・・・先生に、仲間に、友達にどんな言い訳をしよう・・・などと、試合中にも関わらず、もうあきらめ半分で負ける理由を探し始めます。

 早く時間がきて終わらないかな・・・ もう倒れて楽になろうかな・・・いや、このクソ野郎こそ先に倒れないかな・・・高尚な気持ちなど微塵もなく、殴り合い、 蹴り合い掴みあいます。


最後「くそ!この野郎、殺してやる!」 「死んでしまえ!」精神錯乱状態にも似たおぞましい修羅場がそこに現出します。

制限時間が来て、ようやく戦い終わり、幸い勝とうものなら、さっきのことはなかった

ような涼しい顔して「みんなのために戦いました」などと自分を偽った奇麗ごとを平気でいいます。

 負けようものなら「相手の蹴りなんか全然効いてない。俺は負けてない。もう一度やらせてくれ」と負け惜しみをします。

 まったく格闘やスポーツの世界は虚偽の世界、獣の世界の何ものでもありません。

 

以上は私の現役時代の心情です。すべての格闘者がこのような心情をもつとは限りませ

んが、少なくとも私の周囲のほとんどの格闘選手がもった感情であったことは間違いありません。

 同じ選手同士で語り合ったことに「平和」とか「道徳」とか「愛」とかなどと言い合うことはまずありません。この紙面で書けないような下劣な言葉と態度が日常でした。

 選手同士の会話は、どれだけ悪いことをしてきたか、またどれだけ喧嘩をしてきたか・・・とか、こんな奴を殴ってやったとか、そんな武勇伝や自慢話に終始するレベルの低い世界でした。それは今でも変わらないようです(私は今でもよく空手時代の後輩たちから相談を受けます)。

 この格闘武道の練習を続け、そして力がつくと人にちやほやされ、いい気になって強い者こそ最高で、弱い奴は生きていく価値なんてない・・・などと若さゆえか、そんなことを本気で思ってしまうようになります。

 振り返ってみて、こんな野獣のような武道家たちがいまも世間にもてはやされ、英雄扱いされている現状を見るに、その本質を知らぬ善良なる一般人の皆さんに戦いの現場を知っていただきたくて、そして、こんなことをやっちゃいけない・・・ 肯定しちゃいけない・・・
と叫びたく、恥を偲んで、私のかっての心情を白状しました。

 しかし、今だに、こんなことを指導し、また人を食い尽くす勢いで強者を目指す輩が次から次へと出てきています。

 一時は静まった格闘技ブームですが、また近年「K―1」などが台頭し、ますますエスカレートしてきています(K−1は私の指導してきた正道会館から生まれました)。

 また、総合格闘技とか言って、ルール無しで、なんでもありで戦う・・・とか、見ていて、いやらしいものが沢山出てきています。マスコミも誰が世界一だとか、最強だとか騒ぎ立て火に油を注いでいます。おまけに訳の分からない格闘評論家が出てきて分かったようなこと言って解説しています。

 

一番いけないのがそれを受け入れる観客たちです。人の流血に陶酔し、絶叫する様はま

るで何かにとり憑かれた悪魔教の儀式のようです。それはまた、ローマ時代の退屈しのぎに奴隷達を戦わせ、殺し合いをさせてそれを見て喜んだ下堕落な貴族たちと同じです。

 平和で、物に満ち溢れ、自分がやらなくてもお金さえ出せばなんでもゲーム感覚で楽しめる飽食の時代。これは決して格闘技の世界だけの話ではありません。格闘技やスポーツは、社会そのものを反映したワンシーンに過ぎません。

 ビジネスの世界や学校教育にしても、弱者の血をすする強いもの勝ちの覇道の世界になっています。しかし、もうそろそろその覇道社会の幕切れになってきたようです。宇宙の自浄作用がいま働いています。汚れ、穢れ、争いのあるところは掃除が開始されます。

 

あなたになぜ、それが分かるのか・・・?そう問われそうです。

 

なぜ分かるのか?それは「稽古」をしているからです。稽古とは古(いにしえ)から守

られた法則を学ぶことを言います。その法則は宇宙運行の法則なのです。こうすれば、こうなると言う先人たちの智恵を結集した叡智こそ稽古によって培われる技なのです。

 

 この誌面における私の話は、ほとんど、この稽古についてのことになります。

 

今後、じっくりと、皆様がうんざりするほど稽古について述べますが、お許しいただか

ねばなりません。

 

次回は、稽古環境である道場のことからお話させていただきます。

続く・・・

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