2007/07/2 
2008.10.13  

第16話「修行について」

前回、技のことについて触れましたので、今回はその関連として「修行」について述べます。

 

近頃は修行と言うと時代遅れと言われそうです。

 

修行は、トレーニングとか、練習などと言うのとはちょっとニュアンスが違います。一言で言えば、修行は、生涯を賭けて行う潜在能力の開発です。

 

人は、ある若い時期に理不尽とも言うべき環境におかれ、衣食住の制限を受けて技を学ぶ時期が必要です。これにより、食べ物に好き嫌いがなくなり、あらゆる環境に適応する能力と忍耐強さが培われます。

 

私も3年間の内弟子生活と、10年間の組織(極真会館、正道会館師範として)への奉仕生活(完全無報酬)を行い、稽古においても、衣食住においても、現在社会では考えられないような辛酸をなめさせられました。そういう経験を経た上で、現在、私は神道の道に入りました。そして、神に仕える者の一人として、「修行」についても、日本の古代からの習わしを復刻させたいと考えております。

 

なぜ神道なのかと言われれば、武道(ツルギ)は神道の象徴そのものであり、神道もまた武道という表現をもってこそ命を吹き込まれるのです。武道と神道とは不即不離の関係にあると言えます。

 

技を修めることを希望する者にとって、ある一定期間、自分を虚しくし、ひたすら指導者からの一方通行的言動を受け入れる度量は絶対に必要なことです。

 理不尽といわれ様が、これがわが国の「修行に入る」と言うことです。


 「自分が選んだ流派」の理念と身体操作法をまったく無条件で受け入れて学ぶこと。

技と言われるものも、この一見理不尽な環境でこそ生み出されるものなのです。

 覚悟をもつこと・・・入門するとはそういうことです。それでも、もし止むに止まれず、大事あって自分の意見を上に通そうとするならば・・・そう、この世界ではこんな具合です。

 まずその流儀の門に入って最低万日の行を積みます。その間にすべての理念と技を修め、上下、左右の人間関係をしっかり構築します。

 

そして、その流派の為に命を賭けて貢献し、組織や技術などあらゆることを把握した上で、自分の利益を度外視して、利他的に、また闘争的な議論を一切行わず、和を基本とし、自分なりに最良と思う意見を何度も何度も思考します。

 

それが神の御心に叶っていることであるかどうかを潔斎し、祭儀に乗っ取って神前に向い、誠実と潔白をもって一心に祈り、神の裁断を仰いだ上で、ようやくお上に意見を申し上げるのです。

 

これが意見を言上する大和びとの心得ですし、現代でも私たちの世界はこの段階を忘れません。もし意見が私的なものであり、それに悪意があると指摘されたなら、腹を切る覚悟さえもっていなければなりません。

 まさに一命を天に預けての言上なのです。上に「物申す」と言う行為は命がけだったのです。

 しかし、現代はどうでしょう。

 よく学ばず、よく修めず、よく和を為さず、よく神を知らず、よく忍耐せず、周りの状況が分からぬ者が、安易な、浅い知識と解釈で、いつかど一人前のつもりで上に対し意見を言うのを見かけます。

自分がこうだったから、おまえたちもこうあれと言うのは時代錯誤も甚だしいと叱られそうですが、もののふの世界においては、上に立つ者とは、このような環境のもとで修行を積み、辛酸をなめつくしてきた、ある種の神通力を兼ね備えた者たちであるのです。

 

時代をとらえ、先見の明あって、天下国家のため自己を虚しくし、神と通じつねにおのれに省みて祈りをかかさない・・・と言う人を指して「お上」と申します。このような、言わずとも、下の者の気持ちなどすでに読めている・・・そんな者こそ上に立つべきでしょう。

 

言上するときには、すでにこちらが何を言わんとしているのか分かっている者たち。だから・・・である。どうしても言いたいことがあっても、先に言ったように、時期が来るまで黙って黙って、ひたすら黙して修行を積む覚悟が必要です。でないと、浅薄な進言者は大恥をかくことになります。

 こういう偏屈とさえ言われる人たちが、実はこの日本を守ってきたのだ、と言うことを忘れてはなりません。

 私の場合、10歳で空手の世界に入り、18歳で本格的に内弟子に入りました。年少の時から、先生、先輩に対しては、意見どころか、何一つしゃべることさえも遮断された時代を生きてきました。

 何かあっても、先生に話そうとする雰囲気ではなく、そういう気も起きず、ただ聞かれたら「押忍」「押忍」と答え、「押忍では分からないからはっきり言え」と言われて初めて用件のみを、しかも言葉を慎重に選んで話しました。

 傍から馬鹿と言われても、私たちは何があっても、何をされてもただ「押忍」とだけ答え、先生の言うことが分からねば、分かるまで身体を張って答えを引っ張り出そうと努力してきました。

 私は31年生まれです。

 私が内弟子になった18歳の時代は、もう戦争の傷跡も何も知らない、かなり開けた時代です。いくらなんでも、このような時代錯誤と言えるような封建的な世界はとっくの昔に影を潜めていた時代です。

 にもかかわらず、私の望んだ世界は、いまとなってはまったく笑い話ですが、当時は真剣に「地上最強を目指した集団」でした。

 だから、どんな苦痛も、罵詈雑言も甘んじて受けることが出来ました。地上最強になるんだから、また地上最強の技を学ぶんだから・・・と、たいがいの苦痛は当たり前に耐えることが出来たのです。

 

どうも人間というものは、志は大きい方が辛抱強くなるようです。


 何を言われても、どんなに叩かれても、尊敬する先生や先輩の言葉なら心から喜んで叱られ、叩かれてきました。信ずるということは、それほど利己を越えた心のつながりなのだと思うのです。

 そんな中でも、あることで思わず先輩に口を切ったことがありました。そうすると、すかさず「貴様は10年早い」と言われました。その「10年早い」と言う言葉の力は、腹の底からまるでマグマが沸き立つような熱さと威力を感じました。

 私ははっとわれに返って絶句しました。しまった・・・と思ったのです。

 私が言わずともこの方たちは分かっているのに、自分を認めてもらいたいという我が出てしまったことへの、自己に対する猛烈な反省心が自分を包みました。

 

そして、思わず「こう思います」と意見を述べてしまったことを悔いたものです。

 黙して10年の歳月が経ったある時、私はその先輩にもう一度面会を求めました。10年前の話をしに行ったのです。もちろん緊張をもって、言葉を選びに選び、考えに考え抜き、恐る恐る話をしにいきました。

 「押忍、失礼します。実は自分はあのことにつきましてこのような思いをもっておりますが、先輩はいかがお考えでありましょうや。押忍・・・」と直立不動で、腹に力を精一杯入れて話しかけました。もう、私もその時は、黒帯であり、一人前に指導員にも任命されていました。

 

そして多くの道場生を指導し、また全日本の選手として活躍し、道場や組織に対し、大きく貢献をして実績をつくっていましたので、公私とも認める立場であったのです。

 また組織の人間関係もすこぶる良好に保っており、技に関しても先生から「俺が居ないときは前田に聞け」と、お墨付きを下していただいた時期でもありました。

 そのような、考えられるあらゆることをクリアし、公私ともに認められた立場となった上での言上であったのです。

 私にはそういう背景がようやくにして出来上がったので、もうそろそろ話させてもらっても良いだろうと判断したのです。その時は、大先輩も年前と違って「前田が言うことなら」と快く話を聞いてくださいました。そして、楽しく、しかも大変前向きな意見交換が出来たのでした。

 しかし、先輩は、すでに10年前の私の気持ちをお見通しでした。

 

先輩は、10年前は「前田にとって意見を言わせるにはまだ時期が早い。増長し生長が止まってはならない」と察知し、厳しく上下の関係を立てて心を鬼にして怒鳴ったのでした。

 

それは、まったく正しい処置であったのです。私のことです。先輩と縦ならず、横の関係をもって馴れ馴れしく話をしていたらきっと浮ついた気持ちになったことでしょう。それで、私の成長も止まったことだろうと思います。

 

他愛もないことですが、この時は、本当に嬉しかったものです。

 一階に住んでいた者が、ようやく10階に上がることが出来た心境でした。おもてを上げて偉大な先輩の顔を見ながら話が出来たのは光栄でした。

 こんなこと言うと、笑われそうであるが、私たちの世界にとっては、それほど先生や先輩という存在は、まともに眼を見合わせて話が出来ないほどの遠い存在でした。

 私も稽古したが、先輩たちも稽古をしているのです。その、口先だけでなく、実際に現場で汗する姿が本当に神々しくて尊くてもったいないと言う記憶があります。

 こんな一昔前の武道家たちの姿・・・・皆さんはどう思われるでしょうか。

 確かに、すぐ怒って手を挙げるし、やり方が民主主義ではないけれど、先輩や後輩の別がなく、お互に、本当につらい行を積み、何事も辛抱する鍛錬と、その修行課程を知るものだけが知る「許容の間」と言うのでしょうか。

 

絶対不敗とも言うべき神技をもつ先生を筆頭とし、その神技の教えを受け継ぐ先輩、そして一生懸命あとを慕って着いてくる後輩たちには眼で合図できあえるほどの暗黙の了解が生まれます。

 

武道のように、レベルの差が形として確認できる世界において、もしその技に雲泥の差を認め、自身のレベルがはっきりと自覚できれば、人は、自身より高いレベルにある人に対して自然と頭が下がるものです。

 

これは神の世界と同じことです。神さまと言っても様々ありますが、神は神どうし、そのエネルギーの差をもって上下を知ります。

 

いくら偉そうにしてもエネルギーの差はいかんともし難いものです。小さなエネルギーは大きいエネルギーに取り込まれてしまいます。

 

人間界には、もとより上下などはありませんが、鍛錬により保有したエネルギーの差は歴然としています。

 

今の世は、このエネルギーの秩序、配列が滅茶苦茶になっています。上に立つべき者が下になり、下に控えていなければならない者が上に立っているのです。だから世の中が不安定になっているのです。しかし、もう少しすれば、この不自然さは正されることでしょう。

 

物事はあるべきところにきちんとおさまる現象が起きます。ここにおいて、人間界も初めてきちんとした関係が生まれることでしょう。そのときにおいて慌てなくてもよいように、今のうちにしっかりと心身を練っておくことが大事です。

 

修行のことについて書くと言いましたが、なにやら人間関係のことになってしまいました。

 

私は思います。修行でいくら難行苦行を強いられてもたいしたことはありません。そんな技を身につけるための修行などたいしたことではないのです。

 

人にとって一番厳しい修行とは何かと言うと、それは「人間関係」を良好に保つことではないかと思います。

 

続く・・・

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