2010.02.08  

第40話 「無限なる千変万化の技」

自ら道具を作り、それを用いることのできる特性が人が人たるの所以である。ゆえに剱という道具を用いる武道は人間としての英知を凝らした権威と命をかけてきた誇りがある。そこには必然的に自然と節度と折り目正しい作法がともなう。それに対し何も持たない素手だけの技は野性的でありよほど気をつけないと礼儀を欠いた野蛮な格技となり危険性が潜む。
 
 素手の技は部分的であり、剱の技は統一的である。

 たとえば素手の技はタコの足のように、人体の各部分がそれぞれ独立して稼働し、手足がばらばらの状態で相手に襲いかかるものであるが、剱はそれとは対照的に、一本の剱を稼働させるため、全身が一つの個体として動く。それはまるで竜のようだ。 古(いにしえ)より剱は竜神であると伝えられる。剱を振ることによって、まるで竜神が天空に舞う様子をあらわしているからだろう。

素手は器用に、そして自由に手足を動かせるため気を拡散させるが、剱は全身の力と精神力を一本の剱に集中させる。万物の長といわれる人間において、他の動物と絶対違うのは道具を器用に使い、火を用いるということだ。

この点において、人としての資質を向上させるためには道具を用いた技能を鍛錬することは非常によい。心身の鍛練ということにおいて、素手の武道より剱を使う武道のほうがより人間的な鍛錬になるのは歴然だ。

強さにおいても、分散する力を一点に集中して、一本の木剱という他力に託して力を放つ剱の技はまことに強力である。いざ真剣勝負となった場合、人はやはり、その時の字のごとく剱などの道具を用いて決着をつける。素手での勝負は真剣勝負とはいえない。殴りあう、投げ合うなどの取っ組み合いは獣の所作である。

武道とは何ぞや、となった場合「それは剱の道」と言っていただいて支障はないと存ずる次第。しかし、剱は剱でも、それは鉄でも竹刀でもいけない。天地の水火(気〜木)をしっかり吸って育った固い木製の木剱でなければならぬ。その重量といい、硬さといい、そして適度な危険度といい、これほど武道の稽古にふさわしい道具はない。

木剱は使えば使うほど手になじむ、柔らかさとしなやかさも出てくる。なにより「気」が猛烈に注入される。そして剱が命を得て生きてくる。生きて勝手に動き出す。

 なにより木剱なればこそ心身が強化される。腰を入れなければ、あの重い剱は自由に触れぬ。そして腰が動くからこそ腹、つまり「丹田」が異常に力を得るのだ。

剱を扱う時は素手のように、素手のときには剱を扱うように・・・これは私の信条である。武道の技は、素手の動きと呼応している。それは光と影のようなものだ。もちろん光は剱、影は素手である。

私は、長い期間剱の稽古を通して、また、嘗て実戦空手と言われた流派の師範の立場としてこの武器と素手のつながりに関しては非常に興味があった。それで、かねてより剱と素手の関係を意識し模索してきたが、この年齢になってようやく私の中で一致することを得た。

そして、この剱をもった感覚をもって素手を行うと一種独特な技が展開される。投げれば合気道のように、突いて蹴れば空手のように、棒をもてば棒術、杖をもてば杖術に、あらゆる技にまったく対応できる総合武道となるのだ。

ここでこそいう。和良久は、いや「ツルギ」は地上で最強の武道である。それもそのはずである。この生み主はあの「スサノオノミコト」なのであるから。「最強」・・・ツルギの名においては、この言葉は胸を張って豪語してよいと思う。それは「スサノオ」の神を讃美することであるからだ。

私はかってこの剱の技を空手に生かして新しい流儀を立てようと考えたことがあった。それで剱の技を素手に転換してまとめた。その記録ノートも数十冊となった。しかし、神様が許さなかったのでやむなく封印をした。

本筋を立て通せとのご指示を守る約束で和良久がスタートした。いま皆さんに稽古をしていただいている和良久の技「75剱」は技が75通りという少ないものではない。それは無限に広がる力の基本でしかない。

和良久の剱が素手としても使えることを考えれば「75剱」は「技」というより「エネルギーのほとばしり」と言ったほうが正確だといえる。

「和良久は、霊的にも体的にも古今未曾有の代物である。必ず日本が世界に誇るべき技と讃えられることになる」これは亡き恩師の言葉である。

和良久を稽古すれば、占い師もヒーラーも無用、御呪いも健康法も護身術も無用である。

稽古人諸氏に申す。自信をもって稽古されよ。

                       つづく。

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