2011.03.07      

第54話 「無限なる千変万化の技」

剱を扱う時は素手のように、素手のときには剱を扱うように・・・これは私の信条である。和良久の技は、まったく素手の動きと呼応しており、それは光と影のようなものだ。私は、長い間の剱の稽古を通して、また、かって実戦空手と言われた空手の流儀を指導した立場としてこれは非常に興味がある部分であった。

それで、かねてより剱と素手の関係を意識し模索してきたが、この年齢になってようやく私の中で完全に一致することを得た。素手はタコの足のように、人体の各部分がそれぞれ独立して稼働し、相手に襲いかかるものであるが、剱はそれとは対照に、一本の剱を稼働させる。分散する力を一点に集中して、一本の木剱という他力に託して力を放つ剱の技はまことに強力である。

この強力、かつ高速なる剱の打ちに対応する稽古を私たちはいま当り前に稽古している。また心身の鍛練ということにおいては、絶対的に素手より剱の方が本当の稽古になるのは歴然だ。

知的動物は道具を使う。万物の長といわれる人間において、他の動物と絶対違うのは道具を使い火を使うというところだ。武道とは何ぞや、となった場合、明らかに「剱である」と言っていただいて支障はないと存ずる次第。しかし、剱は剱でも、それは鉄でも竹刀でもいけない。天地の水火(気〜木)をしっかり吸って育った固い木製の木剱でなければならぬ。

その重量といい、硬さといい、そして危険度といいこれほど稽古にふさわしい道具はない。木剱は使えば使うほど手になじむ、柔らかさとしなやかさも出てくる。なにより「気」が猛烈に注入される。そして剱が命を得て生きてくる。生きて勝手に動き出す。

木剱なればこそ心身が強化される。腰をいれなければ、あの重い剱は触れぬ。腰が動くからこそ炭田が異常に力を得るのだ。そして、この剱をもった感覚をもって素手を行うと一種独特な技が展開される。投げれば合気道のように、突いて蹴れば空手のように、棒をもてば棒術、杖をもてば杖術に、あらゆる技にまったく対応できる総合武道となるのだ。

ここでこそいう。「ツルギ」は地上で最強の武道である。それもそのはずである。この生み主はあの「スサノオノミコト」なのであるから。ツルギの名においては、胸を張って豪語してよいと思う。それは「スサノオ」の神を讃美することであるからだ。

私はかってこの剱の技を空手に生かして新しい流儀を立てようと考えたことがあった。それで剱の技を素手に転換してまとめた。その記録ノートも数十冊となった。しかし、神様が許さなかったのでやむなく封印をした。本筋を立て通せとのご指示を守る約束で和良久がスタートした。

いま皆さんに稽古をしていただいている技「75剱」は技が75通りという少ないものではない。それは無限に広がる力の基本でしかない。たとえば「ア」という「凝凝解解」という動き一つとってみても、その使用法は、皆さんの知るアレだけではない。前後上下左右に変化可能な驚くべき動きをもつのだ。それは無限といっていい。また、素手としても使えることを考えれば「75剱」は「技」というより「エネルギー」と言ったほうが正確なのだ。それを知っていただくために今回このようなことを書いた。和良久は、霊的にも体的にも古今未曾有の代物である。必ず日本が世界に誇るべき技と讃えられることになる。

和良久を稽古すれば、占い師もヒーラーも無用、おまじないも健康法も護身術も無用である。稽古人諸氏に申す。自信をもって稽古されよ。

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