2011.09.19      

65話 「私が稽古が続くことの理由」

さあこれからというときに、いままでともに稽古をしてきました稽古人が去っていかれるのはまことに辛いものです。

和良久は世界の武道になるということは神様にお聞きしていますので、それは期待ではなく私としてはすでに確信していますので、まったく不安はありません。「いまは忍耐の時である」ということも十分承知しています。しかし、技を分かち合った同士を失うのは人間心として非常に寂しいものです。またそれと同時に、和良久は小さな組織だけに支えの一つを失うことはまことに厳しい現実が目前にせまってきます。皆さんには離れなければならない何か大きな訳があったのでしょう。それはこの前田の指導力の無さも大いに含まれていることを自覚しています。

実は、ほかならぬ、この私自身にも稽古から離れざるを得ないような事態が何度もありました。しかし、なぜ結局あきらめきれず、このように人が驚くほど永く稽古を続けてこられたのか…何かの励みになればと思いまして、今回はこのことにつきお話したいと思います。

 もちろん、まっさきに、わが魂の母、大本四代教主様とのお約束(武道をもって神様のご計画を推進する)を果たすこと、ということがあげられますが、しかし、それ以上に私を稽古から離れさせない大きな理由があるのです。

それは技の極みに達したときに訪れる至高の瞬間への没入です。その世界は「この世」と「あの世」の狭間でもあります。上でもなく下でもなく、前でもなく後ろでもなく、右でもなく左でもなく、内でもなく外でもない空間です。

 精神的、肉体的の双方を含めた、何もかもの中心といいましょうか。そこに入ると、恨みも憎しみも嫉妬も消え、ただ存在していることに無情の喜びを感じるのです。生も死もなく、自我を離れ、ただ「有る」というしか言いようのない世界です。

それまでいかなる悩みや苦痛があっても、まったく忘れてしまい、ひたすら「無」とか「空」とかしか表現のしようがない感覚に包まれます。宇宙の果てに来たような、しかし、しっかりと自分の位置を把握しています。意識が消えているのではなく、はっきりと意識をもっています。持っていますが、無意識に近い状態なのです。神道ではこの物質界と精神界の狭間を天の浮橋(あめのうきはし)と言います。

 ここでは自分が宇宙に溶け込み、神という存在と直結、いえ恐れずに申し上げれば自分が神そのものになったような感覚に包まれます。この苦もなく恐れもない世界に入ることを一度でも経験したならば、もう、その感覚からは抜け出ることはできません。何せ、うまくそこへ入り込めば、少なくともその時間だけでもこの世の現実的な苦悩から完全に解放されるのですから。人生に何があろうと、どんな困難が襲い来たろうと「ここ」に来れば、その人生でおきたことの答えが明らかになりますので、これは楽しみ以外のなにものでもありません。

 この、心が中心世界に回帰する感覚を古来より「鎮魂」といい、そして中心存在と一体となることを「帰神」といいます。鎮魂帰神を一度味わったら、もうこれにまさる世界はないわけですから、何度でもその世界に没入することを望むわけです。

 表現は良くないのですが、まるで麻薬中毒みたいに懲りずに何度も「鎮魂」を求めます。次は、もっと上の世界に、次はより高い次元と交われるようにと願い技を追及していきます。願わくは、この感覚が覚醒の時も継続していればと願い、さらに鍛錬を積むのです。

 人は大怪我、あるいは大病をしたら体内の物質がその痛みを抑えて治癒をはたらかせるといいます。もしかしたら脳内にある麻薬にも似たなんらかの物質が作用しているのかもしれませんが、いずれにしましても、これは薬や機械をまったく使いませんので、害はないのは言うまでもありません。

 私はこの「鎮魂帰神」の状態に入った時の瞬間のあの「味」が忘れられないのです。それが、私が今日まで稽古を続けていられる理由です。この感覚は言葉でうまく表現できません。この感覚の存在をみんなにも教えてあげたい、誘ってあげたいと思うのです。世界中のみんなが少しでもこの感覚を体験すればきっと争いのない平和な社会が訪れるのではないかと思うのです。

 この宇宙の中心に至ったかのような世界観。

 仏教で須弥山というそうですが、それを知る人々はきっと何度でも登ってみたいと思うのではないでしょうか。どうか皆様にも、技の探究を決して諦めずに続けてください。そうして一度はこの感覚に遭遇してみてほしいのです。そうなれば、きっとあなたもその世界から抜け出られなくなるでしょう。繰り返しますが、これが、私が稽古を止めない理由です。いにしえの宗教家や武道家たちが、たったひとりになっても行を続ける理由がここにあると思います。

 たとえ、周りの者すべてがその人の行いに反対をし、妨害をしても、鎮魂帰神を経験した者は、決して挫けず前進していける勇気が腹の底から湧いてきます。一見孤独なように見えるようで、決して孤独ではないということが理解されます。なぜなら、世界中の者がそっぽを向いても、唯一至高の存在が自分を認めてくれたとしたらあなたはどう思うでしょう。その存在にすべてをかけても悔いのないものだと思いませんか。

 「まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことでないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実に達しない」(ブッダ)

 真実を見る目を失った方が多い現在の世の中です。人の言う言葉に惑わされず、自分の目で真偽を確かめるべきです。自分の力で鎮魂帰神を達成してみるのです。

 この世界に生きる以上、人の意見に耳を傾けることは大切なマナーの一つですが、真実の在り処というものは、人は教えてくれません。自分で見つけるしかないのです。

 世俗に染まり過ぎてもなりませんが、逆に鎮魂、鎮魂といって世をはかなみ、内向的になり過ぎてもいけません。十分に外に向けて世の務めを果たしつつ、内なる世界を求めることです。

 このように、技の練磨によって突然訪れる神我一体の妙味の楽しみを知ったならば、あなたはもう立派な稽古人の一人です。その体験以降、あなたは周囲に何を言われても修行を続けることをやめないでしょう。いかに反対や妨害を受けても、あなたはその道を捨てることはないでしょう。

 以上のような理由で私は稽古をやめないのです。

 いえ、止めたくないのです。またこれを世界の人々に伝えたくてならないのです。

 あなたが道にあって、信念を貫こうとされるならば、あるいは多くの人たちがあなたを影で誹謗中傷することがあるかもしれません。そのときは以下の言葉を思い出してください。

 「これは昔にもいうことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少しく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」
(ブッダ)

 心技体一致の稽古を行う者たちは、帰神に至ることにより、大いなる力に守られていることを自覚します。

 「心を守り、言葉を守り、身体の動作について常に気をつけている人は、悩みに出会っても苦しまないであろう」(ブッダ)

 真理を求める私たち稽古人は、よりよき言葉、よりよき行為、よりよき思いに遭遇することを無上の喜びとします。そういう人は、おのずと愚者(利己的で愚痴っぽく悲観的で怒りっぽい人)との出会いは無くなり、不思議なことですが、賢者との遭遇が盛んになります。

 「愚かな者を道ずれとするな。独りで行くほうがよい。孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように」(ブッダ)

私の最も好きな言葉であり、真理を探究する稽古人にとって忘れてはならない言葉です。


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