2011.12.12.       

71話 「組織〜その存続の手段」

和良久の稽古は本当に特殊な稽古です。いや、特殊というと聞こえがいいですね。世間の人から見れば妙なものとしかいいようがありません。武道といっても準備体操もせず、そればかりか、何一つ一般的なストレッチや運動法を用いないで、ただひたすら螺旋、螺旋といって回転運動ばかりします。

水火、言霊、ツルギ、神様、天津金木、八力・・・。

このような意味不明の用語ばかりを用い、おまけに「人を傷つけず人に傷つけられず、人もよく、われもよし」などと悠長に非戦闘を提唱しています。それはまったく一般受けしない、むしろ世間からは怪しげなものとして見てとられるのは当然のことでしょう。

和良久で奥伝を取得しても世間から評価を受けず、またその資格は進学や就職に際して何の役にも立ちません。稽古になればいちいち礼や合掌をしなければならず、おまけに掃除もさせられます。なにより稽古着や袴、そして木剱をそろえねばならず、その用具の携行は重たくて稽古に通うのは並大抵ではありません。

また信仰や特別に宗教はもってない方をも意に介せず、強制的に神代文字まで覚えさせられ、やたら神様の話を聞かされ、あげくに拍手礼拝し祝詞まであげさせられます。

「和良久ってなんですか?」

こんな質問を受けて稽古人であるあなたは困ったことがあるでしょう。それで、あなたは普通のメジャーな武道に見られたくて、また変わり者として見られるのが嫌で言葉を濁した覚えがあるでしょう。

和良久を広めたいと思うのだが、これではどうやって人に紹介していいのかわからない。

 このように古今独歩の和良久ですから、これではちょっと考えると、ますます世間から孤立するばかりではないかと不安になるのは当然です。

私の内なる神が私の心に問いかけます。私にとって最高最尊の神がおっしゃいます。

「艮の金神、出口直の手を借りて、世界のことを知らせるぞよ。明治の人民は、昔の剱より今の菜刀と申して、金さえ有りたら何も要らぬと申して、欲ばかりに迷うて、人に憐れみということをチットも知らずに、田地を求め、家倉を立派に建て、我物と思うて居れども、世が元へ還るから、昔の日本魂でないと、此の先は一寸も行けぬ世になりて、昔の剱が世に出るぞよ。昔の剱が世に出ると申すのは、日本魂の光が現われて世界の間に合う様になることであるぞよ」(おほもとしんゆ)

和良久はきわめてシンプルな集まりでありたいのです。馬鹿といわれても貧乏といわれても純粋でありたいのです。現に、和良久は各稽古場の世話人さんたちによる献身的なご奉仕でなりたっています。稽古人皆さんの毎月納めてくださる心からのご浄財で和良久はかろうじて存続しています。それで私は稽古に専念でき、各稽古場に指導のため出向できるのです。いわば皆さんのご寄付のおかげで私はこうして日々の稽古指導が可能となっています。稽古に専念できたからこそいまの和良久の理念と実践が固まったのです。本当にありがたいことです。

和良久も10年が経ち、以前と比べて少しは名前も知れてきました。とはいえ、みなさん御承知のようにまだまだ小さな集まりです。しかし小さいからこそ本当のぬくもりある技が伝わるのです。

またNPOとはいえ名ばかりで、和良久には専用道場も、決まった事務所も、専属の事務員さんもいません。みんな稽古人さんたちのボランティアで成り立っているのです。私は、ある意味いまの状態が本当の「特定非営利活動法人」と思っていますが、私はできればこのNPOでさえ放棄したいと思っています。

「そうすれば裏切りが出たらどうする。同じ稽古をする組織ができたらどうする。同じ名を語るものがでたらどうする。収入はどうする」そんな声が聞こえてきます。

その時はその時です。人を疑ったらきりがありません。人が信用できないから厳しい規約を必要とするなら、それはもうすでに日本魂の学び舎ではないのではないでしょうか。私は和良久を信じています。私たちがしていることは神様の仕事です。必要なものは神様がお与えくださいます。もし神様が和良久を必要としているなら存続させてくださるでしょうし、いらぬなら消滅されるでしょう。すべて神様の御心のままです。

私はまったく組織の力を否定するわけではありません。いくら人が集まっても、組織形態を大きくしてはならないといいたいのです。人の手が届く距離、そう、昔「寺子屋」というものがありましたが、そんな感じがよいと思います。武道が、学校や会社のような組織になるのは間違っています。私はいまの稽古人さんたちとともに、神様のご計画である人類和合、世界平和の実現のために和良久をもって今日という日をささげたいと存じます。


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