2013.06.25
2011.3執筆

                第100話 「東北」

 今月のはじめ(震災直後)、宮城県南三陸町に行ってまいりました。

 私がここにまいりましたのは、ボランティア作業のお手伝いとともに、亡くなられた多くの方々への慰霊の気持ちからでした。和良久の稽古におきまして、しばらくご祈願の稽古を続けさせて、いただいていましたが、このたびのボランティアはその祈願中に思い立ったことでした。

 そしてもうひとつ、宮城は四代教主様最後の御親教の地となったところです。生前、車椅子という重病にも関わらずご無理をなされて出発された尊いお姿を思い出し、その四代様の影をしたってのことでもありました。

 現地到着は夜でした。衣食住はすべて自分の責任における参加ですので、車中泊ということで車を駐車しても差し支えない場所を探しました。現地には自衛隊や警察、消防隊が前線基地を設けており、また全国からのボランティアさんたちも見えているので駐車スペースはあるようでなかなか見つかりませんでした。

 しばらく、ぐるぐる回っていますと、白い大きなテントが張っているところがありました。そこはなぜか車が止まっていません。かなり広いスペースだったので、他の邪魔にはなるまいと思い、私は迷うことなく車を停車させました。ここが三陸における私のしばしの住処となったのです。

 あくる朝からさっそくボランティア作業は始まりました。仕事はがれきの撤去です。現場は高台であるここ避難所を降りたらすぐです。そこにはかってあった町は跡形もなく消えていました。その光景は以前に見た広島の原爆平和資料館に展示されている写真を思い起こさせました。

 山の木の上にひっかかった自動車や人家の屋根の上にのっかっている船。その恐るべき津波による破壊の凄まじさは私の人生観を揺るがすものでした。

 海の底にあるべきカキ養殖用の青い網篭が、小高い山の木々に無数にぶら下がっています。それはまるでお祭りの提灯のような光景でした。たくさんの篭が風に揺れる様子が私には妙に不気味に映りました。

 がれきは鉄筋、ガラス、コンクリート、木材などの破損物がごちゃまぜです。しかも崩れかけの家屋ですので危険です。異臭の中、舞い上がる粉じんと油交じりの泥。安全靴、防塵マスク、厚手のゴム手袋で装備しての手作業です。

 大きな木や岩など移動困難なものに突き当たると「神様、どうぞ私に力を貸してください」とお願いしました。するとそれまで若者が複数かかっても動かないものがごろりと転がります。怪我やトラブルもなく毎日順調に作業が継続できましたのも、まったく神様のおかげによるところと感謝しています。

 重機を使っての作業がままならない奥まった家屋においては手作業に頼らざるを得ませんし、まして、がれきの中にはまだ行方不明の方が埋まっている可能性もあります。「かむながらたまちはえませ」と念じつつ一つ一つ丁寧に撤去させていただきます。

 ここには行方不明がまだ5千とも6千ともいわれる方々がおられます。私は祈りをささげに、ここににまいりましたので、日中の作業では防塵マスクの中でそっと小声に祈りました。そして車に戻ったときは声に出して大祓祝詞を奏上し続けました。

「大神様、産土の神様ご活動くださいませ。生ける人々に幸あらしめたまえ。天に召しあげられし御霊よ救われませ」

 最初はあまりの悲惨な光景と、がれき撤去時に手にする被災された方々の衣類や玩具などの品物を目にして、どうにも冷静になれず涙が止まりませんでしたが、祝詞をあげ続けていますと徐々に温かい気持ちに包まれ落ち着いてまいりました。

 私が行かせていただく作業現場は、八大竜王を祀る港や山の神さまといわれる祠がある村などにご縁がありました。家屋のがれき撤去作業の休憩の間に、これも皆にわからぬようそっと祠の掃除をしてご神水を供え祝詞をあげさせていただきました。産土の神様の御守護があってこそ真の復興が成就するように思いました。

 一日の作業が終わると全身埃と泥まみれです。電気、ガス、水道などのライフラインが復旧していない地域ですので当然風呂などもはいれません。

 車に積んでいたタンクの水をバケツにうつして体を拭いてなどいました。車で着替え、車で食事をし、車で寝ました。車上生活も慣れるとなんでもないものです。しかし、これも自分には「あと何日したら家に帰ってくつろげる」という安心感があるからでしょう。

 被災者の皆さんは帰る家もないのです。それどころか仮設住宅にも入れずに公共施設内のコンクリートの廊下に段ボールで仕切りをし、毛布を敷いて生活をしておられるのです。

 家をなくし、家族を亡くし、仕事をなくされたその精神的ストレスというものははかり知れません。それを思いますと帰る家、待っていてくれる家族がある私は本当に幸せなんだと思いました。

 そんな境遇にも関わらず、被災者の皆さんはとっても人懐こくてご親切でした。

 毎日「前田さん、お茶のむべし」と心地よい方言で声をかけていただき、厚かましく被災された皆さんの座敷にお邪魔して皆さんと一緒にお茶を頂戴していました。そして宮城の珍しい話をたくさん聞かせていただきました。

 本当にここではたくさんの人の心の温かさを頂戴しました。現地に到着した夜に私の車のナンバーをみて「京都から来られたのですか。ご苦労様です」とやさしく声をかけてくださった方は京都府警から出向された警察の方でした。

 被災者の皆さんに勧められ、自衛隊が開設している風呂にも行きました。風呂の入口には「火の国温泉」とのれんがかかっています。なんと熊本の駐屯地から来られているのでした。私は熊本には毎月お稽古で行っていますし、その熊本駐屯地の前はいつも通っていましたので、とても懐かしく思いました。

 全国から来られたボランティアの皆さんとも親しくしていただきました。

 私がボランティア最後の日に南三陸町の大きな被害を受けた漁港において、亀岡から持参したご神水を海に流しました。密かに行った、その小さな慰霊の式を行わせていただくときも、ボランティアの方が一緒に参列して手を合わせて祈ってくださいました。

 帰る日にわかったことでしたが、私が車を停めさせていただいた白い大きなテントのある場所は、実は身元不明のご遺体安置所でした。テントの中には多くの棺が並べられてあったのです。

 そこが安置所とは知らずに、滞在中、ずっと神言を奏上させていただきましたが、葬式もあげられずに皆様は横たわっておられます皆様のもとに、不肖私の祈りが届いていますことを願わずにおられません。

 被災地における皆さんは精神的にも肉体的にもまだまだ苦難の道が続きます。

 日本の国が一つになり、私たち国民同士が同じ家族という思いで歩まねばならないと思います。

 「今日も一日 怪我なく 病なく 災いなく 命永らえて 元気に過ごさせていただきまして、大神さまのため 世のため 人のためにお役に立たせていただくことができますように」

 和良久はこれからも祈りの武道として、志ある皆様とご一緒に稽古を通して弥勒の世到来に向けて勇往邁進していきたく存じます。


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