2014.03.24  

              第118話 「原点にむかって」

 
人類がまだ言葉をもっていなかった時代、人は五つの音声(父音)だ けでコミュニケーションをとっていました。

 その時代、世界は一つでした。
 
 しかし、時と共に欲をもった人類は、ものに名をつけはじめ、それを独占するようになりました。

 それによって多様な言葉とともに文字も生まれました。 高度な文明の崩壊のはじまりです。

 やがて独占欲によって境界線が出来、国がわかれました。

 「言霊の幸はひ」の一つは、和をもたらす力ですが、これは元の昔への回帰であると思います。

 つまり、ほんとうの魂のつながりとは、証拠(文字や言葉、そして損得勘定)を必要としない、単純至極な音による心の会話からくるのではないかと存じます。いわゆる以心伝心です。

 例えば、音叉のように離れていても響きあうような関係を築くことです。

 響きあうには、響きあうような体質に改善しなければなりません。

 和良久でいえば、八力による体軸の確立です。

 八力による螺旋運動で、中心が生まれます。

 これは、砂の入ったタライの中に水をいれ、かき回すと砂が真ん中に集まるのと同じです。

 中心を整えた者どうしの会話はとてもシンプルです。

 複雑極まりない言語はなく、もちろん議論はありません。

 互いに笑顔で、明るく静かにうなづきあうのです。

 ただ話を聞いただけでは人は変わるものではありません。

 五体と五感をもって体験をしたことだけが、自分を変えるのです。「変える」とは「帰る」ことです。リセットを行うこと、すなわち元の昔に帰ることです。

 私たちは、宇宙の摂理(創造主の意思)を体験を通して学ぶために肉体を与えられ、この現世(うつしよ)に生まれてきました。

 聞くだけではなく、見る、嗅ぐ、味わう、触れるなどの五感を通して、この世界の成り立ちと人の世の様を学びます。

 話を聞くのは、きっかけに過ぎません。

 話を聞いたあと、行動をおこして前に進むのでなければ、私たちは何も得ることはできませんし、また何のために生まれてきたのかも分かりません。

 いま私はヨーロッパにおり、各国の稽古人さんとは、言葉が通じません。

 しかし、言葉が直接伝わらないことが、かえって心のつながりを深めている ような気がするのです。

 もちろん言葉は大切です。 しかし、言葉は多用すると飾りすぎてしまいます。

 人は言葉が少くなると、それを補うために行動をおこします。

 例えば、右手を怪我した場合に左手で右手をカバーするように、また暗くて見えない夜道を歩くのに全身の感覚を研ぎ澄ませて前に進むように。

 私は海外の皆さんと、言語が通じない分、心で会話をいたします。これはすごくエネルギーのいることですが、これがとてもよい鍛練になるのです。

 しかし、幸い私には和良久というものがあります。具体的に心のあり方(一霊四魂)を動き(八力)であらわすことが出来ますので、本当に心から稽古をされる人たちとは意気投合出来ます。

 「和良久を稽古している人は、いつも明るくて礼儀正しいですね」

 「和良久の人たちは皆家族のように仲がよいですね」

 日本をはじめ海外でも、そう、おっしゃってくださる方が多く、私はひそかにそんな稽古人さんたちを誇りに思っています。

 ここローマでのセミナーでも、いつも皆と稽古をし、食事をともにしていますが、笑顔の絶える時はありません。

 これも言霊の法則を、五感すべてを使って、ともに体いっぱいで学んでいるからこそだと思います。

 さて、今度のセミナーでも、ブッダやイエスのことを多用させていただきました。

 子供のとき、仏に祈りをささげ、清貧にあまんじて慎ましやかに生活する両親の影響と、家にあった仏典を何気なく読んだこと。

 また高校生のとき町を歩いていて、ふと古本屋の軒先に置いてあった、小さな古ぼけた黒いカバーの本が眼に止まり、それを聖書とも知らず、ただ百円という安い本があるなと思い、何も考えずに買ったこと。

 ……それらが、いまになって役立とうとは思ってもみませんでした。

 西欧諸国には、瞑想が流行り、仏教的思想を研究する人も多くいます。

 また、当然のことながら、荘厳な聖堂や教会が立ち並ぶ聖書の国です。

 ぞんな国に住む方たちを相手に稽古をするのですから、彼らの思想や文化的背景を知ることは大切なことです。

 ものごとを行うには押し付けるのではなく、まず相手を理解しなければなりません。

 宗教であれば、決して彼らの宗派を変えさせるのではなく、むしろ彼らの宗教を通して、正しい神の道を指し示すことです。

 彼らが住む国の宗教の大切さを思い直してもらい、一層、信仰心を燃やしてもらい、ともに世界の平和に貢献してもらうのです。

 私たちの目的は世界の平和であって、宗教の思想改革による植民地化ではないのです。

 もし無理に日本の宗教のやり方を押しつけたら、その国の文化や伝統は崩壊してしまいます。

 それぞれの国には、それぞれの土地と風土にあった固有の振動数があります。その振動数に合わせて生まれたのが言語です。そして、その言語のリズムに則して文化が発達してきたのです。

 宗教ではなく言霊の法則を伝えることが大切です。

 言霊は、国々共通の音(父音)をもっています。何より、言霊は音だけではなく、身体の操作方法がメインなので、言語は異なっても、同じ人間同士の動きを通して交わることができます。

 宗教や言葉には国境があります。

 しかし言霊には国境がありません。

 私自身、言霊に出会って、初めて国境を越えた宗教という存在を理解することが出来ました。

 ここを思い、稽古人さんたちには世界に眼を向けて、言葉ではなく行動で、すなわち体いっぱいに稽古を続けてほしいと思います。

 和良久は宗教を越えた理念「言霊」と、それを実践する技術がしっかりと具有しています。

 思想のことも話しだけではなく、稽古の中で、技の解説をしながら行います。

 ひとつの技を稽古するとき、これはどういう動き方であるのか……の前に、何のためにこの技を行うのかを解説出来ます。このように武道が素晴らしいと思うのは、理念と実践が見事に融合しているからです。

 言霊の一音一音には必ず「目的」というものがあります。

 それを知らずに、法則を無視して、ただ動くのでは、単なる健康体操かスポーツと変わりません。

 言霊の技は、すべて神の計画遂行のために行うほかはありません。簡単に言えば、神の道具となるための修練なのです。

 「私をあなたの平和のための道具にしてください」

 稽古の目的は、このイタリアの聖人フランチェスコの言葉に尽きます。

 先のローマのセミナーで申し上げました。

 「道場は教会です。指導者は司祭やシスターです。そして、稽古にくる人たちは神の子羊たちです。

 わたしたちは、心を清め、体を鍛えて稽古人さんたちの幸せを祈り、彼らに尽くさねばなりません。イエスが行ったように、上に立つものこそ、皆に対して下から仕える者でなければなりません。

 偉そうに、ただすまして上に座を占めている者こそ、神の心が解らぬ者です。神の使いならば、いつも民とともにあるべきなのです。

 また、技を行うとき、自分を愛するように人を愛しなさいというイエスの言葉を思い出して下さい。

 和良久の螺旋は、倒すのではなく捧げるように、受け返すのではなく、抱きしめるように剱を組みます。

 剱を組むときに慌てて動いてはなりません。

 預言者イザヤは言いました。

 あなたがたはたちかえって落ち着いているなら救われ、穏やかに信頼しているなら力を得る、と。

 また技を使うとき、剱の旋回方向を途中で変えてはいけません。最初の思いを最後まで持ち続けなければいけません。

 これはヨハネの黙示録に書いてあります。

 わたしが来るまで、自分のもっているものを固く保っていなさい。わたしのわざを最後までもち続けるものには諸国民を支配する権威を授ける、と。

 また、剱の動きのどこにも気持ちをとどめてはなりません。

 あなたがどこかに執着したなら、あなたは相手の剱の道筋を見失い、あなたは最後に打たれてしまいます。

 また、相手が打ってくるだろうと期待してはなりません。

 相手が打ってこようと打ってこまいと、あなたには関係ありません。

 あなたは、ただ法則に従い、あなたのいるべき場所で、そこから出ることもなく、また後退することもなく誠実にベストを尽くして動くだけなのです。

 ブッダはいいました。

 一切の執着を取り払い、あるがままを認め、そして孤独に歩め、と。

 例えば、自分が人に親切にしたからといって見返りを期待してはなりません。

 自分が何かをあげたからといって、自分ももらえると思って期待して待ってはなりません。

 神は私たちに見返りなど何も求めず、ただ与える一方のおかたです。

 与えることは得ることです。捨てれば満ちるのです」

 ブッダやイエスがたてた本来の宗教とは、まったく人を隔てる壁のないものでした。むしろ、心の壁を取り払うべくして生まれたのが、宗教本来の姿だったはずです。

 私たちは、世界レベルで原点に帰るべき時をむかえているのかも知れません。





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