2014.09.29 

                 第131話 「初心者の方に学ぶこと」

 新しい方との稽古は、私に思わぬ気づきを与えてくれます。

 長年、稽古していて自分自身が稽古ボケを起こしていることが分かりました。

 こんな理屈はすでに理解いただいているに違いない。

 こんな動きはきっと出来るに違いない。

 そう思っていました。しかし、これは大きな過ちでした。

 私の武道の稽古歴は、もう50年近くになります。

 稽古が私にとって日々の生業のような人生でした。

 習ったことを繰り返し、繰り返しやり、聞いたことを自分なりに書き留めて整理し、そして、その技が使えるか否か実験をしていく…というのが私の習慣でした。

 私は「自分のように他の人たちも生きているに違いない」などと勝手に思い込む、いわゆる「稽古ボケ」を起こしていました。

 和良久になって、なおさら技のことなど、誰にも相談できませんでした。

 結局一人で考え、一人で技を組み立てていかざるを得ない状態が続きました。

 ですので、どこかで皆さんが傍らにいて、ずっと私を見ていて一緒にやってきてくれていたのだ、という錯覚があったのかも知れません。

 「そこまでやらなくてもみんな知っている」

 そういった錯覚の眼を覚まさせてくれたのが、「初心者の中の初心者」の皆さんでした。

 「初心者の中の初心者」って何かといいますと、これは非常に言いにくいのですが「とんでもなく動けない方」または「以前何かほかの習い事をやっていて、ものすごく癖がある方」などのことです。

 これは決して嫌味でいっているのではなく、こういった出来ない方々は、本当に私にとって神様が使わされた方のように思っています。

 和良久は、世に出てまだ間がない稽古事です。

 理論や技術に前例がないので、新しい稽古人さんにとって非常に習得が困難であるように思われます。また、教える私も、この理論や技をどう説明し、どうやって分かりやすく伝えていけばよいのか分かりません。

 説明と技を繰り返してお伝えしていくうちに、こうやって説明すれば分かっていただけるのか、こうやって動けば一緒に動いてもらえるのか…と勉強させていただてます。

 八力の型など、当初は一体どうやって教えればいいのだろうと、随分悩みました。

 一時は、いちいち説明するのが面倒くさく思ったこともありました。

 それで、いっそのこと和良久なんかやめて、武術を教えることにしようかとも考えました。

 空手時代のように説明などなくても「相手をこうやってひっくり返せばいいのだ」と言う強さだけを伝えていけばいいのですから、これは分かりやすくて簡単です。

 しかし、四代様との約束と、すでに真摯な気持ちで稽古に励んでくださる稽古人さんたちの姿を見て「いや、たとえ多くの人たちが理解してくれなくてもいい、いまいる人たちに本物を伝えよう」と気持ちを新たにしました。

 そして、時間はかけてみるもので、徐々に和良久の説明と稽古方法が具体的なものになっていくのです。やることは、当初から変わるものではありませんでした。

 ただ「伝え方」が分からず、試行錯誤の連続であったのです。

 この誌上講座も、実は、私、前田自身の理論の整理の稽古でもあるのです。

 こうして、文を書いていると、次々と理論が整理されてきます。

 物事を説明するには、まず自分自身の理解度を高めることが不可欠です。

 そして、稽古場で初心者の方を目の前にしたとき、何をどのように伝えればよいのかということを、真剣になって考えます。

 稽古は、難しい技の稽古のほうが私にとって容易です。

 もっとも難しいのは、初心者の方との稽古です。

 ただ見た目の動きを伝えてもだめです。

 たとえば、手が「凝」の手付けをしていても、腰が凝に入っていなければ意味がありません。

 和良久の動きは、外観だけ真似をしても話になりません。

 中心軸である腰がはたらいているか、どうかが肝心なのです。

 和良久は、世界で一番単純な動きをもった武道です。

 言えばこうです。

 「時計回りに縦横、反時計回りに縦横に動くだけ」

 たったこれだけです。

 単純な螺旋運動を行うだけ…これが鋭角の世界に生きるわたし達たちにとって、困難この上ない動きに感じられるのです。

 しかし、出来始めたらわかります。

 なんて楽なのだろう、なんて動きやすいのだろうと。

 右に行ったらすぐ左に、上に行ったらすぐに下に、前に行ったらすぐ後ろになっています。

 「前後左右上下を同時に存在させる」

 この理屈は螺旋に生きるものでしか理解できない感覚です。

 たとえば相手が右方向から剱を打ってくるとします。

 それを受けましょうと言う事になると、何も知らない人、いわゆる素人は、打ってくる右方向に自分の剱を向けます。右から来るのだから、右に向けて剱を受けるのは当たり前の反応です。

 「右」

 しかし、慣れてくれば、右へ振る前に一旦左に振ってから右に剱を差し出します。

 なぜなら、この方が衝撃に対して強く反発できるからです。
 
 「左―右」

 そして、技が向上し、精神的にも余裕が出来てきたなら、もう一振り加えて剱を扱うようになります。先の理屈から言えば、右に行く前に左に一振りさせれば強い力を生み出せるわけですから、今度はもうひとつ振りを加えて受けるのです。

  右に一旦振って、そして左へ行くと勢いができるのですから、その勢いを最終の結果にせず、力に変換させて、もう一度右に振るのです。すると螺旋運動となって丸く柔らかで、しかも強力な技に変化するのです。

  「右―左―右」

 「動きを重ねて空間に水火の層をつくる」これが和良久の技です。

 この水火の層が霊性を向上させる基です。

 見た目は、単に右に振ったに過ぎませんが、中身の層の厚さが違います。

 これはたとえば、木の年輪と一緒です。

 目の前に二本の同じ大きさの木が立っています。

 両方切ろうと思ってノコギリを入れました。

  片方は簡単に切れました。

  しかし、もう片方はなかなか切り進みません。

 ようやくのこと切り倒して、双方の木の年輪を確認しますと、一方は年輪が少なく、一方は年輪がびっしりと刻まれていることが分かりました。

  もちろん、なかなか切れなかったのはこの年輪が多くあるほうでした。

 このように、見た目の大きさは変わらないのに、その質量がまったく異なるのです。

  要は中身が問題です。

 私たちも、この木のように、見た目の大きさだけでなく、外観では測れない中身のある技を身につけなくてはなりません。

 今後、初心者の皆さん、もしくは、一般の方々に言霊の法則を、これでもかというぐらい細かく説明し、それも何度でも理解できるまで説明して和良久の技を伝える機会を増やしたいと思います。

 本物と言うのは、縁のある方だけが受け継げばよいと思っていました。それは半分当たっていると思います。

 しかし「神の教えを伝える努力は惜しんではならない」というのもあります。

 和良久は「創造主なる神のはたらきを、五体をもって学ぶ道」です。

  これを知った以上、世界中に述べ伝える努力をせねば神様に申し訳ありません。

 具体的には以下のように進めたいと考えています。

  和良久の稽古に進む以前のレベルである「八力と八剱」を理解する場を多く設けます。

  本格的な和良久の稽古に入るには、相当な心構えが必要とされますことは、皆さんもご承知のことと存じます。

 そして、稽古に入られたら、皆さんの前に、まず一つ目の壁である「八つの力の基本的な使い方」が立ちはだかります。

  これを突破したら、後は楽に前に向いて進んでいけます。

 この「八つの力」に慣れる機会を、入門する前につくろうというものです。

  「凝」という打ち方が出来るまで、根気よく「凝」のことを伝えていきます。

 
 出来れば、各稽古場で月二回は開催できたらと思います。

  その内の一回は、皆さんに担当していただき、自らも初心の気持ちと基礎の大切さを思い返す機会となればと存じます。

 つい先日のこと、堀川の稽古場のことです。

  何度伝えても「凝」が打てなかった方がいました。

  それが、なんとしても動けるようにして差し上げると、伝え方を掘り下げ掘り下げしながら、一心になってやっておりましたところ、ようやくのこと「凝」が打つことが出来たのです。

 私は、それが嬉しくて嬉しくて、その日は寝付けないくらいでした。

  人が自分の力で「出来る」ということが、これほど嬉しいこととは思いもよりませんでした。

 「出来ない」というのは、もちろん稽古をする当人の努力不足もあるでしょうが、それよりも、伝える側の努力不足と大いなる怠慢に他ならないということを痛感しました。

 私は「与えることを惜しんではならない」という神様への誓いをすっかり忘れていたのでした。


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