2014.12.02  

                 第135話 「生きる力の奪還」
  1. 生きるとは命輝くこと

    八力は、生きるための力を最大限に表現した姿です。

    「生きる」とは、三つの「ナル〜成る、生る、鳴る」の内の「生る」で、「天津菅曽〜宇宙の力」の分野です。すなわち、生きるということは、命を輝かせることです。

    精一杯生きることは、例えば、蝶々が蜜を求めて跳び続けるように、魚が糧を求めて泳ぎ続けるように、植物が日に向かって延び花を咲かせるように、そんな体を張って未来へ向かっていくということではないかと思います。

  2. 生きるとは他の命をいただくこと

    生きるため〜生命を保つためには食べなくてはなりません。
    そして、食べるためには、他の生き物の体、すなわち命をいただかねばなりません。

    命をいただくとは、その生き物のエネルギー(霊と体)を取り込むということです。

    特に、人は無数の生物の犠牲の上になりたっているという非常に特殊な生き物です。

  3. 人以外にも具有する霊魂

    私たちは、生きるためにあらゆる命を糧にしています。

    私たち人という種類は、他の生物と異なり、生きていくためには、ただ「食べる」だけでは命を保つことはできません。

    寒さや暑さから身を守る「衣」と雨風をしのぐ「住」も必要とします。

    そのために、自然に生息する植物から、生き物から、そして鉱物から家を作り、服を作り、薬を作りなどして命を保っています。

    この鉱物、植物、動物を「三元」と言います。
    神道では、この三元にも魂が存在すると考えています。

    以下のごとくです。

    剛体〜玉留魂(たまつめむすび)〜鉱物
    柔体〜足魂(たるむすび)   〜植物 
    流体〜生魂(いくむすび)   〜動物

    鉱物も植物も声はあげません。
    動物は言葉を話しません。
    でも、彼らはしっかり生きています。

    「鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず」と言います。
    言葉を発し、思いを伝えられる者は幸いです。

    もし、石や草や獣に言葉があったら私たちは手をかけることに躊躇するでしょう。

  4. 自分の手をいっさい汚さず物が手に入る時代

    肉を食べるのに、私たちは牛や豚を殺しません。
    誰かが殺して解体し、肉を薄く切り、まったく原型をとどめることなくパックにしてくれます。

    フライドチキンを食べるのに、私たちは鶏を殺し羽根をむしって体を切り刻まなくても、お店に行けば、味をつけ、油であげて箱に詰めてくれます。

    魚を食べるのに、私たちは船に乗って、何日も遠い危険な海に行き、網を投げ入れたり、竿を垂れなくても、お店に行けば綺麗にさばいた状態で簡単に手に入ります。

    野菜を食べるのに、私たちは土を耕し、種を蒔き、水をやり雑草を引き抜く手間をかけなくても、お店に行けば、季節を問わずどんな野菜でも手に入れることが出来ます。

    果物をたべるのに、暑い南の国のジャングルにはいって、高い木の枝によじ登らなくても、お店に行けば手に入ります。

    ご飯を食べるのに、私たちは土をおこして水をひき、苗を植え、その後何日も何日もかけて手をかけ、稲を刈って干さなくても、米はお店に行けば買えます。

    その米を炊くのも、川へ行って水をくみ、山へ行って薪を集め、ふーふーと息吹きかけて火をおこさなくても、指一本でスイッチをいれればご飯は炊けます。

    家を建てるのに、木を探しに山へ行き、それを切り出して里へおろし、何ヶ月も乾燥させ、皮をむき、角材に製材しなくても、お金を出せば建築屋さんがつくってくれます。

    水も井戸を掘らなくても、泉を探さなくても、そして、桶に組んで担がなくても、軽く水道の栓をひねれば水は出ます。いえ、近頃は、ひねらずとも手をかざすだけで水は出ます。

    隣の知人に何かを知らせるのに、私たちは大きな声を出さなくても、キーボードに軽くさわるだけで連絡できます。

    京都から東京に行くのに、私たちは命がけで山坂を越え、雨風にさらされ、盗賊や獣に襲われる心配をしなくても、静かに座っていれば到着します。

    ・・・すべて、いまは自ら労を費やさなくても、お金を出せば生きられるのです。

    現代において、生きるとは「動く力を使う」ことではなく「お金の力を使うこと」なのです。

  5. 退化していく身体機能

    現代、私たちは歩かなくても、声を出さなくても、手足を使わなくても、力一杯動かなくても、汗をまったくかかなくても、私たちは生きることが出来ます。

    また、考えなくてもコンピューターが答えを即刻はじき出してくれます。

    私たちは、手を血や土で汚さなくても、歯を食いしばって渾身の力を振り絞らなくても生きることができるのです。

    しかし、歩かないので脚は衰え、声を出さないので声帯は衰え、手足を使わないので筋力は衰え、頭は使わないので脳が衰えていく一方です。

    体は一応五体を与えられていますが、そのほとんどの機能を使い切っていない状態です。これは、一体いつの頃から始まったのでしょう。

    私たちは、体は一応人間ですが、人間としての機能を果たしているのでしょうか。

    食べて快楽を求める・・・これが人間の姿でしょうか。

    運動不足やストレスの解消などと、高額なお金を払い、アスレチックジムに行きます。

    そこでハツカネズミが走るように、モルモットが実験に使われるように、妙な機械の中に入って「生きる力以外」のために力を使っています。

    私たちはまるで妖怪か宇宙人のようです。

  6. 他の命と融合し神に尽くす

    私たちは、目の前で命が消えていく様子をまったく見ません。

    だから、いま口にしている食べ物に対して感情をもてません。

    いま、口に入れたものは、さっきまで声をあげて走り回っていた牛や豚や鶏なのだと知ったなら、命をいただいているのだという実感がおこるでしょう。

    そして自然に手が合わさり祈るでしょう。

    犠牲を見たなら、私たちのために体を捧げてくれた生き物すべてに、感謝の心とともに「その命、決して無駄にせぬよう、私は神の計画のために生きていきます」と食べ物に神を見て祈ります。

    万物はすべて永遠不滅の霊魂をもっています。

    その無数の霊魂を取り込んで、私たちは生きていることを忘れてはなりません。

    それら生き物たちのエネルギー(八力)が、自分の体に溶け込んで融合し、ともに神の業にいそしむのです。

    そう思って活動することによって、多くの尊い霊魂が浮かばれるのだと思います。

  7. 核兵器

    自分の手が汚れない。
    目前で命が消えていく様子を見ない。

    だから平気で核ボタンを押すことができるのです。

    遠い地で、自分が押して発射された悪魔の兵器によって、人の体がバラバラに飛び散り、人ばかりではなくすべてのものが焼けただれていく様子を見れば、それを明確にイメージすれば、人という同じ種族として、そんな非人道的なことは出来ないはずです。

    大量に人を殺し、永久に環境を破壊する・・・もし、これをわかっててやったのなら、もう人間ではありません。

  8. 世界で起こっている最も恐ろしいこと

    いま、この世界で起こっている最も恐ろしいことはなんでしょう。

    戦争、飢餓、疫病、災害、犯罪、放射能・・・その通りです。

    どれも憂慮すべき恐ろしい事態が私たちの命をむしばんでいます。

    「戦争や災害などによってこの世界が終わる」と案じている私たちですが、しかし、それよりも、もっと恐ろしいことがすでにおこっているのです。

    核や自然災害などによらなくても、私たち人類はすでに自滅の道を歩み始めています。

    それは、目に見えないところで静かに、しかし確実におこっています。

    核をつくるのは誰でしょう。
    環境を破壊するのは誰でしょう。

    飢餓を起こすのは誰でしょう。
    犯罪を起こすのは誰でしょう。

    みんな人間です。

    人間自身の体と心の制御が早急の問題です。
    生きる力(八力)を失った私たち人類は暴走を繰り返すばかりです。

  9. 与えられた力と魂

    私たちは人間です。
    人間は神の似姿として造られたと言います。

    神は人にご自身と同じ力と魂をお与えになりました。
    力とは「八力」、魂とは「一霊四魂」です。

    なぜ、これらを与えられたか。
    それは「生きる」ためです。生きて神の心を覚り、神の計画を実行するためです。

    魂は八力を通して輝きます。
    魂は「光」、八力は発電機のようなものです。

    生きること〜「息をして動くこと」をあきらめずに続けることで、私たちは多くの学びを得ます。

    その学びとは、まず省みることから始まります。
    そして愛すること、和すること、そのために勇気と智恵をはたらかせることなどです。

    これらはこの世で生きて活動することによって学ぶことが出来るのです。

    この生きて活動することを八力と言います。

  10. 八力の停止は神とのつながりを消す

    もし、私たちが八力を完全に停止させたらどうなるでしょう。

    つまり、発電機を停止させたらどうなるか。

    魂の光は消え、省みる心、愛する心、和む心、そして神の計画を実行する勇気と智恵を見失います。結果、神とのつながりが消えます。

    神とつながっていてこそ私たちは「人」です。
    神霊(ひ)が止(とど)まるゆえに人と言われるからです。

    人が人でなくなったら、どうなるのか。

    神の反対の存在(悪魔)とつながってしまいます。

    核を使わなくても、災害が起こらなくても、このままでは、勝手に人は消えて生きます。

    人の形をした生き物は、互いに傷つけあい殺し合います。
    いえ、その前に、機能低下で自然に自滅をします。

  11. 八力が消えた時代

    生きるための力である八力。

    これを停止させることは、神(天地自然)から流れてくるエネルギーの供給をストップさせることかもしれません。

    人は、生きるために体を動かしてきました。

    いま、生きるのに体を動かさずとも生きれるようになりました。

    生きてはいるけれど、それは本当の生きているということではありません。

    昔は、生活そのものが八力でした。

    凝や解、引や弛、また分や合、動や静などを駆使して、水を汲み、火をおこし、岩を持ち上げ、木を切り、木によじ登って実をとり、縦に横に叩いて獣を殺して食を得て生きてきました。

    だから、自然の有り難みがわかりました。
    命の尊さが分かりました。
    生きることの大切さがわかりました。
    神の存在を体で認めることが出来ました。

    だから、むやみに人を傷つけたり殺したりできませんでした。

    いまはもう、そんなことを一切しなくても生きられる時代になりました。

    八力が消えた時代となりました。

    八力の消えた時代。
    すなわち魂の消えた時代です。

  12. 人であることを捨てないために

    時代はますます便利になっていく一方です。

    声を出すことも、考えることも、動くことも、ただ快楽を追求して最低限のエネルギーの消費で生きる時代になりつつあります。

    普通に暮らしていたら、私たちの体は、いつの間にか宇宙人のようになってしまうことは間違いありません。すでにそうなっています。

    あまり会話することも、遠くへ呼びかけることもしなくなったので、声の出し方がわからりません。よって声帯が弱り気道が萎縮します。呼吸の出入も正しくなくなります。
    呼吸の出入の悪さは、血の循環や内蔵の機能を衰えさせます。

    体の機能低下は、心のバランスを狂わせます。

    心のバランスが狂うと、人の心も読めなくなり身勝手になります。

    我慢、忍耐という心の抵抗力が衰え、すぐ争いとなります。

    八力を用いない普通の生活しかしていないので体の使い方が分かりません。

    肉体のコントロールがうまくいかず、争うと、体の使い方が非常にまずい状態になります。

    たとえば電圧調整ができない機械のように、体が不自然に動きはじめ、暴走します。

    そして、気がつくと人を殺傷していた・・・ということになります。

    犯罪の多さは、この八力の消失と関係しているように思えます。

    生活をして命を守っていく中で、水や火や自然からの恵みに感謝する心も育まれます。

    「助け合って生きる」ことを、自分の体が教えてくれるのです。

  13. 体の中にある真実

    いまの便利な生活を捨て、原始的な生活に戻れということは出来ません。

    最低限、人であることを忘れないための動きを型として残さねば、人類に未来はないでしょう。

    このままでは、暴走する人のような生き物は、勝手に自滅します。

    環境破壊や戦争反対どころの騒ぎではありません。

    こんな身近に仕掛けをしておいた悪魔の勝利となるでしょう。

    人類を救うのは、政治でも経済でも宗教でもなく、もっと身近な体の中にあるのです。

    「心を取り戻す」ということをよく言いますが、心を取り戻すことは、体を取り戻すことから入ることを知らねばなりません。

    心(一霊四魂)は、体(八力)の中にあるのです。

    八力は生きる力です。

    生きる力は、衣食住の大切さを思い実行することです。

    衣食住を得る過程で、自然への感謝と共存を思います。

    八力は「生きる」ということを考えることです。

    神の分霊と言われる人間であることを思い出すことです。

    すべての答えは、体の中にあるのです。

    答えはとてもシンプルなのです。

    平和も愛も体が教えてくれます。

    一生懸命に生きること、輝いて生きることは平和と愛の証です。

    私はすべての人々にこう言いたいです。

    「静かに自分の体に向き合い、体の中で錆び付いた発電機のスイッチを入れて、心の灯りを灯してください」

    きっと、心の倉庫には愛や勇気や素晴らしい宝物があることに気がつくでしょう。

  14. 八力は人類本来の力の使い方

    今の時代にあって、わざわざ昔の風習をもちこむことは非常に困難です。

    八力は、「押す」「引っ張る」「抱える」「持ち上げる」「下ろす」「祓う」「受ける」「掴む」「転がす」などの生きるに不可欠な基本的動作です。

    しかも、これらの力を極限にまで、思いっきり用いた状態でなければ意味はありません。

    八力とは、あくまで生きることを前提とした命の懸かった行為なのです。

    スポーツなどの趣味程度の気軽な力の用い方では「生きる力」は培えないのです。

    かと言って、岩によじ登ったり、大木を伐ったり、広大な土地を耕したり、また、生き物の命を手に掛けるに匹敵するほどの力を社会の中で再現することは、現在においてかなり困難なことです。

    ですから、力の根元ともいえる腰の極限の動きを型として行うのです。

    それが八力の型です。

    八力は、決して特殊な動きではありません。

    生きるために不可欠な動き方を表しただけに過ぎません。

    和良久を独特な動きをもった武道と言われることがありますが、和良久は、本来人類がもつ普通の体の使い方を示したに過ぎないのです。

    多くの人が和良久を特殊な動きだとか、八力が難しいというのは、実は、先に申し上げたように、われわれの体が「生きる」ことを忘れたがゆえのことです。

    まだ、不便な時代にあったとき、私たちの祖先が日々を生きるために、普通に毎日行ってきた体の使い方にほかならないのです。

    それを特別な動作に見える現在の時代こそ、逆に恐ろしい時代になったと私には思えます。

  15. 生きるを楽しむ


    私たちは何か勘違いしているのではないかと思います。

    何かを発明して時代を変えるのだとか。

    新しいシステムをもってよりよい世界を築くとか。

    法律を新しくして世の中をよくするだとか。

    そういったことも大事ですが、その前に「道に迷ったら元来た道に引き返す」ということを忘れてないでしょうか。

    いま、世界中の人たちの心と体が悲鳴を上げています。

    その声が外から聞こえているように錯覚しているのです。

    その悲鳴は自分の体の中、つまり心の底からの声であるということに気がつかねばなりません。

    生きるを見直し、生きるを楽しむことがそんなに難しいことでしょうか。

    生きる力の中にこそ神がいます。

    神に会いたければ静かに体に向き合うことです。

    きっと声が聞こえてきます。

    その声は世界共通の言葉で聞こえてきます。

    「アオウエイ」「アオウエイ」

    天地結水火〜あなたはわたしであり、わたしはあなたである・・・と。
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