2008.10.06  

第16話  イエス・キリスト 愛について その2

私のクリニックに、毎日のように元気よく宅配の荷物を運んでくれる、30歳前半で熊本出身の某運送会社の男性がいます。今年の夏も暑かったですが、その日は特に暑く、いつも「こんにちは〜!」と元気よくクリニックの玄関の扉を開けて入ってくる彼の声に元気がありません。見ると、汗びっしょりかいていて、ぐったりした印象でした。「夏のこんな炎天下の中、荷台を押しての荷物の集配はきついです」と日焼け顔の彼。私は彼に「ちょっと待っていて」と言って、院長室に駆け込みました。「これを飲んで元気になってね!」と自分用に飲んでいるビタミンB、Cそれにミネラルのサプリメントと冷たい水を彼に渡しました。その日の夜、クリニックでの診療を終え帰宅する途中、遠目に、荷台を押してまだ仕事をしている彼の後ろ姿を見ました。日中見たときよりも、心なしか元気になったようでした。

さて、前置きが長くなりましたが、前回に引き続いて今回も、イエスの言葉、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」についてお話したいと思います。

−「隣人」を愛する−

『自分を愛するように隣人を愛しなさい』

イエスは、「愛すること」を説きました。そしてその対象は誰か?イエスは「隣人」と教えてくれています。

わたしたちが実際に愛し、そして悩み苦しむ対象は、そのほとんどが親や兄弟、恋人、夫や妻、そして友人や仕事関係のひとといった、日常生活の中のごく身近な「隣人」との関係から生まれています。他の誰でもない、まずこの「隣人」を愛すること、ここに、イエスが、愛を抽象的な総論で唱えるのではない、日常の中の各論で唱えるという「徹底した愛の実践者」であったことがわかります。

−「自分を愛するように」隣人を愛する−

イエスは、愛する対象は「隣人」と説きました。ではその隣人をどのように愛するのか?それをイエスは、「自分を愛するように」、と言っています。この言葉は私の胸にズシリと刺さりました。イエスにしか言うことのできない、イエスのイエスたる由縁の愛の言葉だと思います。この言葉で思いつくのは、母親の子に対する無償の愛です。自分のお腹を痛めた子のためならば、自分の命も惜しくないといった愛のおもいです。

3次元のこの世で肉体という身体をもって生まれている以上、私たちは自分を最優先して愛することは、肉体の生存維持のためには必要なことです。そんな中で、「自分を愛するようにひとを愛すること」は、果たしてできるのでしょうか?大好きなひとを愛することでさえ難しいことなのに、ましてや憎んでいたり、恨んでいたり、怒っているひとを愛するなんて、できようはずもない。だからこの「自分を愛するように隣人を愛しなさい」なんてことは、まったく現実的でない!と誰しも思ってしまいます。

そう思うのも無理はないかもしれません。しかし、そんな恨み、憎み、憤る「隣人」だからこそ、愛を与えることが難しいと思える状況にこそ、真に価値あること、すなわち「愛すること」の本当の意味を学ぶ大きなチャンスが隠されていると思うのです。真に価値あるものは、いつも困難なことへの果敢な挑戦の中で手にすることができるように。

何故、「愛すること」がそれほど大切なのでしょうか?愛する上で、智恵をもって相手を理解することはとても大事なことです。しかし、この「愛すること」でしか、怒りや憎しみの感情は、最終的に、そして根本的には解消されません。「愛すること」でしか、本当のしあわせは生まれないからです。そして何よりも「愛すること」を学ぶために、私たちは生まれているからです。

川の中の凹凸のある石どうしが互いにぶつかり合い、擦れあって流れていく中で、次第に互いの石がよりまるく研ぎ澄まされていくように、わたしたちの魂も、この3次元の人生という川の中で、互いに揉まれあって成長していくのだと思います。

『自分を愛するように隣人を愛しなさい』

イエスのこの言葉の奥には、前話でも述べたように、私たちの本来の存在は、分断された個々の肉体をもった存在ではなく、宇宙の大霊としての神様から生まれた同胞であるという確信から出た言葉なのだと思います。自分と同じ本質としての霊をもった存在である隣人だからこそ、自分と同じように愛せるのだと。

「愛すること」を学ぶために、わたしたちはこうして何百回も何千回も何万回も時代や地域を変えてはこの世に生まれ変わっています。そして私たちの身近なその「隣人」たち同胞もまた、同じように「愛すること」を学ぶために、縁あって自分と同じ時代や地域を選んで生まれ変わってきてくれているのです。そうすることで互いの魂の成長が得られるからです。こうした人間の本質としての魂、そしてその魂の成長のしくみへの理解があって、初めて隣人を愛することができてくると思うのです。

『だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である』(新約聖書「マタイによる福音書」第7章12節)

イエスのこの言葉は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を、よりわかりやすい表現で、より身近な例えで語ってくれたものと思います。遥かなる高みにある目標と思われた、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉の意味を、より具体的、現実的にしてくれました。

そしてこの言葉で、大分私のこころは軽くなりました。自分を愛するように隣人を愛することは極めて難しいとしても、自分がひとにして欲しいことをひとにすることならば、実践の可能性が大いに高まりました。遥か彼方の雲に隠れていたような山の頂が、ようやく視界に入るほどの高さになったような思いになりました。まさに、愛を実践論で説く、愛の実践者たるイエスの言葉だと思います。

「人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」

そうです、この言葉は何よりも、「ひとに役立つことをする」という前話で述べた私たちの大天命に繋がる言葉になります。愛を説いたイエスは、この言葉で私たちの大天命を教えてくれているのです。

そして、この言葉を実行するとき、特別のことをする必要はないのです。「おはよう!」と声をかけること。「ニコッ」と笑顔を見せること。「大丈夫かい?」とおもいやること。「応援しているよ!」と励ますこと。その他毎日の生活の中で、どんな些細なことでもいいから、今の自分が「隣人」に役立てると思えることから始めればよいのです。それが、各個人の天命と繋がり、ここから愛がスタートするのです。

では、私にとっての隣人は誰でしょうか?私は今、「塚田クリニック」という診療の場をもち、医師としての仕事をしています。私にとっての「隣人」はもちろん、妻であり、スタッフであり、そして何よりもクリニックを訪れてくれる患者さんです。だから私にとって、患者さんをいかに愛するか?これが私にとっての大きな天命となっているのです。

私は、様々な症状に悩む患者さんのこころと身体と魂をひとつに見る診療を目指しています。この目標に少しでも近づくために、自分が学んだ最善と思える治療を提供すると同時に、クリニックの毎日の終礼のときに、その日来院して下さった患者さんたちがより健康に、そしてよりしあわせになることを、スタッフ一同で祈る時間をもっています。あたかも太陽の光が、患者さんのこころと身体と魂に、さんさんと降り注ぎ、患者さんが輝いているイメージをもって毎日祈っています。

さて、次回は「愛」にも成長発展があり、その質や、大きさが異なるという「愛の進化論」についてのお話となります。

 

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