2008.11.03  

第17話 愛は無限に進化発展する ーその1ー

「おもい」それ自体は形のないものですが、そのおもいを「行う」ことで体現されます。「愛」というおもいもまた、「愛する」という行いを通して始めて花開きます。皆さんは「愛」と聞いたときに、どんな「おもい」を浮かべるでしょうか?そしてその「おもい」から出たどんな「行い」を思い浮かべるでしょうか?

前話の中で、人生にも「因果の法」すなわち「原因と結果の法則」が成り立ち、その原因は、わたしたちの「おもい」と「行い」であるという話をしました。今回は、「愛は無限に進化発展する」という視点から、この「おもい」と「行い」について話をしたいと思います。「愛」と言っても、実はいくつかの段階の愛があるというお話です。

この地上における愛の進化発展には、大きく4つの段階があると、私は考えます。それぞれの段階の呼び名は、私が勝手に名づけたものですが、第1段階の愛は、ひと言で言えば「情の愛」、第2段階のそれは「育成の愛」、第3段階は「無私の愛」、そして第4段階の愛は「真理の愛」と名づけたいと思います。子供が様々な体験を通して知恵を学び、真の大人に成長していくように、愛もまた成長していきます。そしてこの愛を進化発展させていくことこそ、わたしたちの魂の真の目的と考えます。

初めは、第1段階の愛、すなわち「情の愛」についてです。

前話の中で、私が医学部に入学してすぐに、ひと目惚れした美しい女学生がいたお話をしました。あたまの中の「おもい」は、毎日彼女のことでいっぱい。会えるはずもないのに彼女に会いたくて、夜も彼女の家の前まで行くなど、好きで好きでたまらないほど「愛している」と思っていましたが、みごとに振られてしまい、失意のどん底に。

さて、このときの私がおもっていた「愛」を表す言葉は、まさに「好き」です。この段階の愛のおもいの起点は、あくまで「自分」です。「自分の好み」といった感情的な満足度が基準となっています。だから相手を選びます。

そして、このおもいから出る「行い」は、自分の好みから選んだ相手に対して、「優しくする」、「温かくする」、「労わる」といった行為になります。もちろん「好き」な相手のしあわせをおもいますが、自分が相手に愛を与えたように、相手からも同等かそれ以上の愛を受け取ることを望んでいる、つまりギブアンドテイクの関係が、意識的であろうと無意識的であろうと、そこにあります。

人によっては、自分に愛を与えてもらうことのみを要求している方もいるかもしれませんが、要するに「自分」が「愛」与えたように、「自分」に「愛」を与えて欲しい。これが、この段階の「愛」を表しています。

この段階の愛は、相手から自分がおもう「愛」が与えられない場合、そこに憤りや恨みや悲しみが生まれます。ちょっと好きでも、大大大好きでも、死ぬほど好きであっても、自分が与えた愛が、その相手から与えられないことでこころに葛藤が生まれる以上は、この第1段階の「情の愛」の範疇に入ります。

私は失恋によって、自分の「愛」が受け入れてもらえない、相手から「愛」を与えてもらえない、そして自己を否定されたようなこころの葛藤や悲しみを味わいました。しかし、このときの「愛」は、あくまで自分の「好き」という感情を基準として、与えたから与えて欲しいという「愛」だったのです。

次に第2段階の「育成の愛」です。

私が放射線科の専門医として、大学医局の長岡市に在る関連病院に勤めていたとき、同じ医局の後輩で、医師2年目になるT先生がその病院に赴任してきました。大学で1年間の研修を終えていたとは言え、彼の胸部X線写真やCT(コンピュータ断層撮影)、MRI(磁気共鳴画像)に映し出された病変の捉え方や考え方などの診断技術は、まだまだ未熟でした。

私は、今まで自分が学んできた知識や経験を彼に教え、彼の診断能力が患者さんの治療に役立つように向上することに努めました。あれから十数年たち、そのT先生もいまや医局長となって、後輩の先生たちを指導しています。

この段階の愛の「おもい」を代表する言葉は、「育てる」というおもいです。そこには「相手」を成長させたいというおもいがあり、この段階での愛の基準は「相手の成長への貢献」です。つまり、「育成すること」も愛のひとつであるということです。

そして「行い」としては、「教える」、「育てる」、「導く」、「叱る」などが挙げられると思います。先生と生徒、上司と部下そして師匠と弟子といった関係が、この段階の愛の説明としてわかりやすいと思います。

第1段階の「情の愛」との違いは、3つ挙げられます。

ひとつ目は、愛を与える対象を自分の「好み」で選んでいるのではないこと。もし、自分の好みで選んでいるとしたら、たとえ相手を育てていると言っても、それは第1段階の愛になります。

2つ目は、相手を育成するだけの経験や知識を得ている必要があるということ。相手を育成するには、それだけのものを自らが学び体得していないと与えられないということです。

3つ目は、ギブアンドテイクの愛にこだわらないこと。つまり教えたり育てたり、という「愛」を与えたからといって、自分も教えて欲しい、育てて欲しいという「愛」を与えられたい、ということには拘らないということです。

私が放射線科専門医として後輩の先生を指導するためには、指導できるだけの、画像診断をする上で必要な解剖学や詳細な病気の専門知識、さらには症例経験数を身につけていなくてはなりません。愛を与えるにしても、それだけの自分の努力が必要となりました。

もちろん、後輩を指導する中でも、わたしもさらに学び、いろいろと教えられることも多々ありましたが、後輩から教えてもらいたいために指導したのではないということです。後輩の医師が育ち、診断を向上させて、患者さんの治療に役立てばとのおもいからでした。このおもいも「愛」のおもいであり、第2段階の「育成の愛」と考えます。

 さて、次回はさらに愛は進化発展し、第3段階の「無私の愛」そして第4段階の「真理の愛」についての話となります。

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