2016.06.07    

第18章―15 隠蔽(いんぺい)されたガン治療法の数々 その14

私の母はついこの間、5月3日(2016年)に85歳で亡くなりました。自分の先祖から私が何を受け継いだかをみなさんにお伝えするため、前回に父と、母方の祖父母の人生を書き、今回いよいよ母のことを書こうとしていた矢先のことでした。若くして夫を亡くし、乳飲み子を二人抱え、女手一つでその二人を育て上げたのだから、大変な生涯だったと同情を寄せる人が多いのですが、とても幸せな人生だった、とも言えるのではと息子の私は思っています。

母は、私の祖父の二人目の妻(私の祖母)の最初の子として生まれ、前妻の子である兄と姉1人ずつと、妹2人、弟1人、計6人の次女として育ちました。ただ、14歳で終戦を迎えるころには、戦争に行って怪我をして帰ってきた兄が、その怪我が元で亡くなってしまいました。

母は非常に繊細で神経質、人にどう思われるか、どう見られるかをものすごく気にしていて、かなりの心配性です。心配が始まると、その心配を口に出さずにはいられません。

もちろん、一番の心配は、息子である私のことだったと思われます。早くに亡くなった主人(私の父)と似たようなエリートコースを一応歩んでいたのに、それを逸脱したばかりか、日本まで飛び出し、その後も離婚などのトラブルを起こし続けていた”親不孝者”でした。しかし、そうしたトラブルにもまして、私の健康をいつも気にしていました。

私が小さいころ母はよく、「お前は体質がお父さんそっくりだ」とつぶやきました。父と同じくやせ型。小児ぜんそくなどを患って、よく寝かされていましたから、30歳で若死にした父とダブらせて、この子は病弱だ、と完全に信じ込んでいたと思います。

そのため、大学に入って母と離れて暮らすようになってから今まで40年近く、母と電話で話すたびに、「体は大丈夫か」と聞かれなかったことは、一度もありません。ほかのことでも心配していたかもしれませんが、口から出てくるのはいつも私の体の心配でした。亡くなる数日前、衰弱して言葉を出すのもやっとなのに、まだ、「お前、体は大丈夫か」と私に聞きました。

おそらく、この子はこのままいけば、父親と同じようにガンにかかって、若死にするのではないか、と本気で考えていたと思われます。ある意味、この心配によって私は暗示にかけられていたようなもので、小さいころから、おそらく物心がついたころから、ガンで死ぬのではないか、という恐怖に怯(おび)えていました。

ですから、母の最大の願いは、私が健康になる、健康でいることでした。この願いは、私が32歳のときに叶えられました。この、私が一瞬で、物の見事に健康になった出来事が、この連載の第1回で書いたことであり、同時に私は、ガンで死ぬのでは、という呪縛からも解放されました。

この出来事がなければ、この子はガンで若死にする、という母の心配は現実化していたかもしれません。この出来事によって私は、健康や病気というものに深い興味を抱き、病気の本質は多くの人たちが考えているものと大きく違うのでは、と考えるようになりました。そもそも、それをお伝えしようとしているのがこの連載です。

しかし、私がすっかり健康になったことが、母にきちんと伝わったとは思えません。この連載の原稿を母に見せたこともあるし、私が非常に健康であることを何度も母に訴えましたが、死の間際まで私の体が気にかかっていたくらいですから、結局、母の心配は拭(ぬぐ)えなかったようです。

子供のことがどれだけ心配かは、母になってみないと分からない、と母である友人から指摘されたことがありますが、そもそも心配性は私の母の根本的なアイデンティティー(本性)のひとつであり、心配性の人を安心させようというのが、土台無理なことかもしれません。それよりも、「心配してくれてありがとう」ともっと感謝するんだった、と今になって後悔しています。

母が私によくつぶやいたもうひとつは、「私はブスで平凡でつまらない女だ」です。この自己評価の低さは、今の日本の伝統かもしれませんが、これも私の意識の奥底に刻み込まれたようです。私はおそらく物心がついたころから、「自分はダメな人間だ」という意識がものすごく強い。

この意識を決定付けたのは、父が早くに亡くなったことだと思われます。物心ついたときには、父はすでにいなかった。物心がついたときに父がいない、というのはもちろん私だけではありません。父親どころか、両親ともにいない人だっている。だから、かわいそうだ、というような話をここでしているのではありません。私の根本中の根本的なパーソナリティー(ジョージ・グルジェフが”パーソナリティーのボス”と呼んだものです)、つまり私の自我の大元がどうやって形成されたか、を説明しようとしています。

父がいない、ということを幼い私は、本来あるべきものがない、と捉えてしまったようです。私の妹を除いて、私の周りに父のいない子はいなかった。父がいない、みんなにはあるものが私にはない、私には肝心なものが欠けている。

母から自己評価の低さをじわじわと叩き込まれているうえに、父がいないために、自分には肝心なものが欠けている、という意識が重なって、「自分はダメな人間だ」が決定的になった、と思われます。私の自己評価は低いどころか、最低です。自分が最低だということは私にとって、とても恥ずかしいことでした。恥ずかしいという意識はおそらく、伝統的に恥を重んじる日本の文化から来ていると思われます。

自分が最低の人間であることが、私の恥ずかしいところであるわけですが、私にとって最悪なのは、その自分の恥部がさらけ出されることです。さらけ出された恥ずかしい思いだけは味わいたくない。しかし、父がいないことが元だった私の恥部は、時がたつごとに拡大解釈されていきます。まず最初は、小児ぜんそくなどを患って、よく寝かされていたことです。

いとこたちが遊びに来て、外で楽しそうに遊んでいるのに、私だけが布団で寝ている。いとこは、「日出夫ちゃん、どうしたの」と私の母に聞いている。小さい子供の体の調子が悪くなるのは、母親の精神状態が不安定であることが原因であることが多いようです。家計を支えながら二人の小さな子を育てているのですから、母の精神が穏やかであるはずはありません。しかも、私は若死にした父に体質が似ていると暗示をかけられています。ですから、私が小児ぜんそくなど病気がちだったのは、何の不思議もないかもしれません。

しかし、幼い私は、自分の体は健康でなく、いつかは父と同じようにガンを患って死ぬ、と思い込んでいました。そもそも、父がいなかったことと、私がダメな人間かどうかは、関係があるとはとても思えないのですが、それは今だから分かることで、自分の周りがほとんど全てで世界が非常に狭い小さな子供には、通用しません。

さらに、小さいころ憶えていることは、かけっこでビリだったことです。おそらくそれは、保育園か小学校に上がったばかりのころで、その屈辱は、50年くらいたったいまでも憶えているくらいです。これも、寝かされてばかりで、ほかの子のように走り回っていないから、仕方ないと今では思えるのですが、かけっこが速いか遅いは小さな子供にとって、優秀か劣等かの分かれ目です。これによって私は、運動能力も人より劣っている、と思い込んでいました。

それ以来、私は能力に対して強い劣等感があって、能力がない自分は価値のない人間であり、人にも好かれない、と思っていました。そして、屈辱的な存在である自分は嫌であり、嫌いでした。

この強い劣等感と「自分はダメだ」という意識がその後、様々なところで足かせとなり、特にここぞというときに私の足を大きく引っ張ることになります。しかし、これを私の両親が残した負の遺産、と捉える必要は全くない、と私は思います。むしろ、これは私に与えられた試練ではないのか、と。

選択の自由という言葉があります。父のいない家庭に生まれ、強い劣等感を植え付けられ、そんな人生は自分が選んだのではない。両親が勝手に私を産んだのだし、こんな家庭に生まれてくるつもりがあったわけではない。こんな境涯に生まれてきて、私は不幸だ。私ばかりがこんな目にあうのは不公平だ。

でも、もしこれが自分の選択だったらどうでしょう。ほかにもいろんな選択肢があったのに、自分でこの両親、この境涯、この運命をわざわざ選んできたとしたらどうでしょう。いや、生まれる前に選んだのかどうか、と考えることもない。今ある境涯、今ある運勢、自分の両親を、今この場で、自分の意思で、自由に選択することができるか。

この選択ができないで、これは自分の人生と言えるでしょうか。偶然か、神だか運命だかが定めた、あるいは両親が勝手に産んだために決まった、押し付けられたものでしかないかもしれません。自分の本当の人生を始めるためにはまず、自由な自分の意思によるこの選択が必要そうです。

ともかく、大黒柱の父親が幼い子を残して早くに亡くなり、母親はやたら心配性で、自分が価値のない人間であるかのようにつぶやいてばかり。その長男は小さい頃から強い劣等感に悩まされ続けているというのは、何と悲惨な家族でしょうか。しかし、私の母は、それらのマイナスを帳消しにして、さらに余りあるものを持っていました。
(続く)


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